哲学日記

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zoom RSS 『回想T』 《離別への決意》

<<   作成日時 : 2005/12/11 10:55   >>

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七 離別への決意

〈たぶん《薬物》の所為だと思うのだが、瞬間的な《運命論者》というか、瞬間的な《未来感知能力者》というか、新藤君流に言わせれば《+相対虚時間》の《時間認識体験者》といったところなのであろうか? とにかく、未来予知ができるようになった人間になったような気がしたのである。うまく言葉で説明できないが、自分がつぎに何か行動しようとすると、つぎに何が起こるか瞬間的に《直感》してしまうような、そんな不思議な時間感覚なのだ…。たとえて言うと、ある長い《夢》をみていたとしよう。その《夢》のなかではなんの脈絡もないストーリがつぎからつぎへと朦朧と流れていたとしよう。そして、ある《瞬間》、何等かの刺激、例えば電話の音とか、目覚まし時計の音とか、あるいは《歯痛》でも、風のそよぐ《音》でも、とにかく刺激としては何でもいいのだが、そのような何等かの《刺激》を実際に受けたとしよう。すると、その《瞬間》! いままで《朦朧》としてわけのわからなかった《脈絡のない》ストーリの《意味》が、その刺激を《核》として、《時間》というものが《一瞬》のうちに《夢》の最初の部分から《溯って》、そのストーリを先頭から《溯って》、あたかも《必然的に》そうなるべくしてそうなったかのごとく、《整合性》のある《雰囲気》をもってその《夢》から醒める…といったような、そのような体験なのだ!〉

           ……………

〈あるいは、《薬物》による《覚醒状態》であると思うのだが、とにかく、実際には《視覚》でも《聴覚》でも《皮膚感覚》でもなく、通常の《感覚》とはまったく異なる《感覚》に支配されているような、そんな《瞬間》が不意に襲ってくることがあるが、そのような実に不思議な《感覚》があるのである。例えば、なにげない《動作》をしているとき、突然、《瞬間的(=+相対虚時間的)》にその現象の《意味》、その現象の《本質》、その現象そのものが何を《意味》しているのか…という言語以前の《なまの感覚》がそのまま《直感》される…ようなそのような不思議な《感覚》が突然襲ってくるのである…。《幻覚》の軽いものであったのかもしれないが、いずれにしても、《時間》の感覚、《超時間》の感覚、つまり、《未来》と《過去》の両方向に同時に伸びる《瞬間的予知感覚(=絶対虚時間、=相対虚時間、=+絶対虚時間、=-絶対虚時間…)》とでも呼ぶべき不思議な《時間感覚》によって支配されているということなのだ。つまり、この《時間感覚》が異常に《敏感》になっているのだ…。例えば、ある《駅》を降りて、工事中の道路を横切ろうとして、ふとある《労務者》が不慣れな手つきで《作業》をしているのを見るとしよう…。すると、《瞬間的(=-相対虚時間的)》に彼が《某一流大学》を出て、ずうっとエリートコースを歩みつづけ、然る後、何か《必然的》な《運命》によってその約束されたコースから逸脱すべく《決定(=+絶対虚時間的)》され、途方もない《運命》の連鎖の果てに、今あのようにして身を隠しながら、ひとそれぞれの《人生行路》を歩んでいる…というその《一断面》が、あたかも《自分自身》が《その人》になったように《感じられる》と同時に、その《瞬間(=+-絶対虚時間)》までの、自分の運命的な《過去》の連鎖とが《一瞬》の間だけ《二重映し》にして垣間見るような、そんな極めて《虚時間的》な体験なのだ! つまり、時間を《溯って》しまうような、そんな体験なのだ…〉

           ……………

 われわれは日常の現象を日常の現象としてそのまま何の不思議も感じることなく素通りしてしまうのだが、ある特別な人間に於いてはある状態になると通常とはまったく異なる《感覚》が原始時代から人間の遺伝子に組み込まれていた小さな《窓》を通してそのようなわれわれからみると《異常な》そのような《認識》が瞬間的に喚起されるのではないだろうか? もしそうであるならば、《天才》だけでなく《精神分裂病者》たちもそのような異常な《感覚》つまり《感性》が恒常的に持続しているのではないだろうか? 《プルースト》、《ジョイス》、《ドストエフスキー》、《カフカ》、《スウィフト》、《シャガール》、《ゴッホ》、《ゴヤ》、《ピカソ》、《ダリ》、《ドビッシー》、《マーラー》、《モーツアルト》、《バッハ》、《ベートーベン》、《カント》、《フッサール》、《ウィットゲンシュタイン》、《ニーチェ》、《キルケゴール》、《ハイデッガー》など、こういった人間たちはそれぞれ《分野》は異なるがそのような超異常な《時間感覚》、《空間感覚》について異常なまでに鋭い《感性》の持ち主ではないか! ただ、現実の無名の《分裂病者》や《精神障害者》たちの多くは、実際に《時間》や《空間》に関してそれなりに鋭い《感性》をもっているにも拘らず、その大半というよりそのすべてが単なる《異常者》あるいは《精神異常者》として悲しい《受難》の道を歩んでいるのではないだろうか? ヨブは神に《訴えた》… 〈神よ、私は間違っていない! …… 〉と。

           ……………

 その頃、誠一はキルケゴールという哲学者に最も強い影響を受けており、特に、《絶望》、《単独者》、《反復》、《逆説》、《逆説両義性》といった一連のキルケゴールの思想の中核となる根本概念についての誠一の情熱はある意味で異常なほどであった。子供の頃から誠一はひとつのことに熱中するタイプであったが、この傾向は成人してからも変わることがなかったばかりでなく、誠一が新藤君と出会うようになってからはその傾向に一層の拍車が掛かってしまったのである。誠一が自分で語っているように(自分はどちらかと言うと、すぐ新しいものに感動してしまう質で、今はキルケゴールの思想に陶酔しきっていた…) パウロの信仰に関する誠一の考え方は、キルケゴールが誠一にとってある意味で宗教的規範となってしまったため、パウロ神学の批判というよりも伝統的なキリスト教そのものの基本的な考え方そのものを批判してみたくなってしまったのは否定できなかったし、他の多くのクリスチャンと同じように、パウロ神学の価値そのものを疑ったことはなかったが、新藤君と出会うことにより、初めてパウロ神学ではなぜ《肉的》つまり《霊的》なものに対する《物質的》なもの…という意味での《肉的》なもの、新藤君にとっては《感性的》なもの…が、あのように強く否定されなければならないのか…という疑問が少しづつわかるようになっていったのである。要するに、新藤君はキルケゴール的な考え方とパウロ的な考え方のその両方を同時に実行しようとしているように誠一には思われたのである。

           ……………

 それまで無批判的に聖書の言葉をそのまま額面通りに受け取ってきた誠一のこころの中に微妙な変化が生じただけでなく、新藤君と出会った最初の頃は新藤君があのように執拗にパウロ批判するのかその理由がよくわからなかったが、彼の主張を何度も反復して訊かされているうち、新藤くんは聖書の教えそのままにパウロの言葉をそのまま実行しようとして完全に《挫折》したこと、彼が聖書の言葉をそのまま言葉通り実行しようとすればするほど《現実》の《人生》において《悲惨》と《矛盾》と《つまずき》が訪れただけだ…ということを誠一は理解していったのである。そして、誠一は新藤くんがキルケゴールやパウロそのもののように人生を生きようとしていた…思うようになると同時に、それでは新藤くんが分裂病でなくたって頭がおかしくなっても仕方ないではないか…と気の毒に思うようになっていった。当時、誠一は決して牧師を批判したり攻撃したりしたことはなかったし、また教会批判や宗教批判する意図もなかった。なぜなら、そのようなことをするだけの《技量》も《資質》も持ち合わせていない…ということが誠一にはわかっていたからである。そのころ、誠一は既に幾人かの聖書学者たちの論文を読み、見解が異なる全く正反対の結論が可能であることを知っていたので、軽々しく神の存在を否定したり肯定したりするようなことはできない…と思うようになっていたからである。だが、それにしても新藤君のような《不幸》な人間に対し、教会というものの存在があまりにも《冷たい》というか、あまりにも《無能》である! という現実を直視するにつけ、誠一はますます《教会》あるいは《自分自身》が厭になっていってしまったことも事実なのである。このまま《教会生活》を続けるべきか? このまま《教会学校》の教師を続けるべきか? こんなことでいいのか? などど牧師や教会や自分を批判しているうち、結局、誠一は自分自身が最も《偽善者的》ではないか! という結論になってしまうのであった。

           ……………

 伝統的なキリスト教的解釈によれば、教会を離れ聖書を離れ十字架と復活の福音を離れることは即《霊的》な《死》を意味するが、既に誠一はそのような《単純》な考え方は持てなくなっていた。誠一にとって神は《存在しないように》存在する。あるいは、《存在する…》けれど《存在しない…》というように神の存在そのものを《逆説》として捉えるようになっていた。しかし、そのとき誠一はまだ《スティファン・ディダラス》や《イワン》でもなかったし、《アリョーシャ》でも《一郎》でもなかった。そのときの誠一はいわゆる新藤くんの《+悪魔》であり、かつ、同時に《-悪魔》である! という極めて《逆説両義的》な存在に陥ってしまったのである。

 それまで、文字どおり真実そのもの…と信じていた聖書のことば、それがもはや以前の絶対性を持ち得ないことが誠一のこころのなかに芽生えてしまった。もちろん、聖書のことばすべてを捨ててしまったわけではないが、それまで絶対的なものとして信じて疑わなかったその聖書のことばを徐々にではあるが、ある程度距離をおいてみるように変化していったのである。それは、丁度、海辺で力強く押し寄せてくる《潮》が、今度はゆっくり《退いて》ゆくような…そんな感じであった。誠一の内面は少しづつ変化していった。それが精神の病気のせい(所為)なのか、あるいは自分自身の《内部変化》によるものなのか…その辺のくわしいことはわからなかったが、いずれにしても百年の恋が終るように、情熱が褪めるように、必ずしも《信仰》そのものが《消滅》したのではないが、《信仰》そのものが以前とは随分かけ離れたものに変化してしまっていることが誠一にはよくわかっていた。

           ……………

〈自分でも理由はよく分からない。なぜ自分の内部が変化してしまったのか? しかし、今はどうでもいい、その理由がわからなくてもかまわない。けれど、これからはどうすればいいのだろうか?〉

〈このまま信仰生活を続けることが出来るのだろうか? このまま信仰生活を続けていていいのだろうか?〉

〈自分としては教会から離れてもかまわないが、いままで続けてきた教会学校はどうなるのだろうか? 教会生活、教会学校生活を通して実に多くのひとのお世話になったが、そのひとたちにこれからどのように説明すればいいのだろうか?〉

           ……………
〈かつて、私はあのナザレのイエスが神そのものと信じていた。しかし、今、私はあのイエスは人間以上でも人間以下でもない、人間そのものとしてしか《認識》していない! 私は復活そのものを否定はしない。しかし、私は多くの信徒が信じている意味では復活を信じていない。私が信じている復活の意味は、この世界での復活ではなく、彼岸での復活という意味である。また、私はキリスト者のみが復活する…というそういう発想そのものを否定するようになってしまった。すべて、《精神》として存在する《生命》はことごとく《復活する》可能性がある!…という、そういう考え方に変わってしまった〉

〈私は随分変わってしまった。いい意味でも、悪い意味でも、変わってしまった。別にそのことについて後悔はしていない。変わってしまったものは変わってしまったのだから、今更自分自身に嘘をついてもはじまらない。ただ、そうは言いながら、まだ今までつき合ってきた人間と完全に敵対関係になってしまったわけでない。ただ、距離が置かれただけだ。しかし、彼等はそうは思わないだろう。彼等からみれば、私は他の多くの《非信仰者》とみなされるであろう。尤もそれはそれで全然かまわないが、すると今までの人間関係はいったい何だったのだろうか?〉

〈そもそも、《出会い》があり、《分かれ》がある。《誕生》があり、《死》がある。《信仰》に《入る》ときがあり、《離れる》ときがある。《立ち現れる》ときがあり、《没する》ときがある。《宇宙》での《一切》の《現象》はただこれ《永遠》に終ることのない《変化》ではないだろうか? もしそうであるならば、《私》というこの《意識》、、この《意識現象》、この《本質》は何も変わってはいないのではないだろうか? 今の私にはわからない。これからどのような《道》を歩むのか、歩まなければならないのか… それがわからない〉

           ……………

〈私は神の存在を否定しない。しかし、今のような《信仰生活》はつづけることができない! 私は神から多くの《恵み》を受けてきた。 しかし、今までのような《信仰生活》をつづけることはできない! 私は神が慈しみをもっていることを否定しない。しかし、信仰がすべてを解決するとは思っていない!〉

〈私は《信仰生活》に幻滅を感じたのではない。ただ、私のような人間は通常の《信仰者》と行動をともにしてはならないのだ! そうだ! 私のためではなく、むしろ、多くの《信仰者》のためにこそ私は教会を離れるべきなのだ!〉

〈時間を超越し、空間を超越し、認識や存在の《奥義》を超越している神のみが私の内部を知っている… そう、私は必ずしも信仰を捨てたのではないことを…〉

〈イエスの存在そのものを《超越超限帰納法的極限》として《解釈》し直し、復活の教義をそのままで受け入れることのできない私には教会を離れることが最も相応しいことではないか! いつかわかるときがくるだろう。なぜ私が教会を離れなければならなかったか…ということを〉

           ……………


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第一章 回想
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一  存在の奥義 前半
一  存在の奥義 後半
二   魂の食事
三  出会い 前半
三  出会い 後半
四  変化の兆し 前半
四  変化の兆し 後半
五  世界認識
六  なつかしい人々
七  離別への決意
八  自問自答
九  分厚い封書
十  反逆者の内面
十一 宗教談義
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本格小説
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■ 『異常なる感性』
第一章 回想
第二章 饗宴
第三章 Ωの輝き

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論文集
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■ 『信のたわむれ』 
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』


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関連記事:
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『モツニ自らを語る(その2)』
『モツニ自らを語る(その1)』
『Ωの輝き』 《解説(その2)》
『Ωの輝き』 《解説(その1)』
「産経新聞はアホや」について
「産経新聞はアホや」(つづき)
『一即一切』について
『色即是空』について
「価値なき神」の哲学日記 bQ09について

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関連ブログ:
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■ ライブドア・ブログ
(世相、時事、哲学、宗教、政治、経済、その他)
■ エキサイト・ブログ
(AI、意味処理、知識処理;脳科学、神経科学;機械翻訳、その他)
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(文学、小説、哲学、論文、作品、ファンタジー、その他)
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(心理学、精神医学;脳科学、神経科学;教育、思想、哲学、その他)





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コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
この節は20年前に作成したときのとは大幅に変更しました。その理由は、説明調的な部分を全面的に削除したことと、最後の内面の独白の部分を集約してまとめたことです。
モツニ
2005/12/11 10:59
小説を創るということの”醍醐味”のひとつに、20年の歳月を掛けることによってほんの”数ミリ”の”厚み”ができるのですが、その”数ミリ”の”厚み”というのが実に”莫大”あるいは”厖大”な経験あるいは体験の堆積なのです。
モツニ
2005/12/11 11:02
ぶっちゃけた話し、これまで自分では二度も強烈な”うつ病”を体験したことを何か凄いことでもあるように錯覚していたのですが、人生の苦しみは”うつ病”だけでなく”躰の病気”も然り、”経済的な困難さ”も然り、”失業そのもの”も然り、ということで、実際に”本当に苦しんだことがない限り”ほんとうにインパクトのある文章は絶対に書けない!…ということがひとつわかりました。
モツニ
2005/12/11 11:06
第一章のこの節が丁度中間点であり、これ以降が後半の部分になります。つまり、存在の奥義からこの離別への決意までが前半であり、その主な主旨はこどもの時代の回想から実際にクリスチャンになってからの回想を新藤君との出会いを中心に回想しているのですが、その新藤くんとの出会いによって誠一の信仰そのものが”超越”してしまった…ということが凡そのアウトラインです。回想の章の後半は”饗宴”の章への準備へとリンクされているのです。
モツニ
2005/12/11 11:14
時間の”遡及性”についての本格的な展開は第V部でおこなわれます。また、いわゆる”リベット”の研究に関係する問題と”超ひも理論”と関係する部分との絡みも同時に展開される予定です。精神病の本質は”時間把握”の障害がその本質であると言われていますが、”時間”そのものの”本質”を人類はまだ洞察していません!
モツニ
2005/12/11 18:45
『異常なる感性』という小説だけで”精神分裂病”の本質を解明しよう…といったような”野心”は抱いておりません。むしろ、この小説によって、人間の限界、つまり、”精神分裂病”の世界は”神の領域”に属するものである!といったようなことを強調しています。
モツニ
2005/12/11 18:48
現在、このジャンルの小説で最高傑作を展開しているのは、ドストエフスキー、カフカ、ストリンドベイリ、サド公爵、スウィフト、ヘルダーリン…といったところですが、これらの作家の作品群だけでは本格的な”精神分裂病”の内部世界の詳細を描写するだけの材料を与えてくれていません。
モツニ
2005/12/11 18:51
過去5年から10年近くにわたって新藤君が私宛てに書いてくれた約1000通の手紙は非常に興味深いものなのですが、これをそのまま文学するにはあまりにも複雑通過るので、どうしても、解釈、創作、イメージといったものの援用を仰ぐことになります。
モツニ
2005/12/11 18:53
その場合、本来であれば、現代版の”キルケゴール”、”フッサール”、”ハイデッガー”、”ビンスワンガー”、”ミンコフスキー”、”ウィットゲンシュタイン”、”木村敏”…といった一連のスターがほしいところなのですが、現在そのような逸材は存在していませんし、これからも急には望めないでしょう。
モツニ
2005/12/11 18:56
小説のこの部分は大幅に書き改められました。その最大の主旨は、著者の主眼がキリスト教批判から精神分裂病の世界への完全なる”飛び込み…”といったようなことがらに変貌してしまったからなのです。もちろん、ストーリの流れのため、なぜ”教会生活”を打ち切ったか…というようなことが書かれていますが、それは本質的なことではなく、キリスト教は”精神分裂病”の解明には何等役に立つような概念は提供できない…というようなことを暗黙に示唆しているのです。
モツニ
2005/12/11 18:59
このことは、同様に、仏教、精神医学、精神病理学、精神分析学、心理学、深層心理学、異常心理学…といった学門分野においても同様に”無力”、”無能”、”無知”である!ということの意味あいでもあるのです。というのも、このジャンルでの仕事を行う…ということ自体、ドストエフスキー、あるいは、ニーチェ、キルケゴールのレベルの非常に高いレベルの天才性が要求されるからなのです!
モツニ
2005/12/11 19:02
もし、読者のなかに数学に長けていて、かつ、空間トポロジーについて詳しく、かつ、コンパクトHausdorff空間について詳しい読者であれば、精神病と”超ひも理論”とが非常に”高い(=抽象的な)”レベルで共鳴していることを認識できるのではないでしょうか。また、そのとき、相対性理論、量子理論、その他もろもろの宇宙理論と時間論、空間論、そして私の”意味論的空間トポロジー”といったものが非常に複雑に関係していることがわかってくるのではないでしょうか!
モツニ
2005/12/11 19:07
繰り返しますが、ここまで、通しでずうっとこの小説についてこられた読者の方々は少なくとも”ニーチェ”、”キルケゴール”、”ドストエフスキー”、”カフカ”、”ジェームス・ジョイス”、”ヘルダーリン”…といったようなところの作家はマスターできているようなそんな気がします。どうか、最後まで、通しで作品をお楽しみください。こんな書き方は失礼かもしれませんが、現在実際に生きている”読者”の”99.999%”は純粋バカ(=衣食住等のことだけしか頭にないような人間というような意味です)”である!というような認識で小説をリリースしているのです。
モツニ
2005/12/11 19:14
ここで展開されているのは、一見すると”ブログ”であります。しかし、このブログの本質をようく観察して頂ければご理解いただけると思うのですが、本格的な”思想”そのもの、”哲学”そののも、”宗教批判”そのもの、”精神病理学”への誘い…といったようなことがらなのです。
モツニ
2005/12/11 19:17

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『回想T』 《離別への決意》 哲学日記/BIGLOBEウェブリブログ
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