哲学日記

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zoom RSS 『回想T』 《なつかしい人々》

<<   作成日時 : 2005/12/09 10:57   >>

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六 なつかしい人々

 誠一と新藤君は実に多くのことを話し、かつ、論じた。《宗教》、《哲学》、《科学》、《恋愛問題》だけでなく、《宇宙の問題》から《原子のスピンの問題》まで。あるいは、《ソ連崩壊の問題》や《ドイツ統一の問題》から《インチキおじさん》や《ちびまる子ちゃん》などのまんがの話題まで、実に話の題材にこと欠くことはなかった。話の《分野》が殆ど《宗教》と《哲学》に限られているのに《話題》といえばほぼ無限にあるようであった。《精神分裂病者》が《うつ病の病み上がり》の人間とこのように親しく際限もなく会話ができること自体とても不思議な気がするが、この二人はそんなことをまったく考えずただただ延々と礼拝後の午後のひとときを一緒に過ごしたのであった。誠一は生まれつき人見知りするタイプでなかったので、当然新藤君についても偏見をもつことはなかった。したがって、彼が精神病であることがわかった後でも以前と少しも変わらない付合いをしただけでなく、誠一は以前にも増して新藤君との親近感を深めていった。偶然にしてもこれほど相性がいい組合せがないほど、この二人は不思議なくらい《深い》人間関係を結ぶことができたのであった。

 当時、新藤君は自分の人生に完全に《絶望》していた。どこの教会でも相手にされず、どの《牧師》にも自分の《話》を訊いてもらえず、ただただあちこちと《友達》や《話相手》を求めてさ迷い歩いていたようであった。確かに、新藤君は《自己主張》がつよく、相手の話を訊くのはあまり上手でなかったので、そのため自分の考えが《正しい…》と主張し出すと、誠一が彼の《間違い》を軽く指摘してもほとんど撤回することはなかったが、そのようなときでも誠一は決して逆らうことはしなかった。誠一は例えどんな相手であっても相手を《立てる》習慣がついていたので、本能的に新藤君を《満足》させることができたが、それでいて、そのことによって誠一が面白くなくなるようなこともなく、新藤君と誠一はいつもお互い十分な《満足》をもって意見の交換をするのであった。新藤君の趣味は殆ど《宗教》それも《キリスト教》に限られていたが、誠一にとって新藤君の話しは他のどんな《クリスチャン》や《牧師》の話より面白いことだったことは確かであった。その新藤君があるときこんなふうに誠一に話し掛けてきた。

           ………………

「依田くん、君はパウロをどう思う?」
「ぼくですか。ぼくはパウロはあまり好きではないね」と誠一は答え、どうして新藤君がそんな質問をするのか訊ねた。
「パウロは女を知らない…」と言って新藤君はいつものようにむきになってパウロを批判し、こう言った。
「ぼくに言わせればパウロは死人だ。死人と同じだ。だってセックスを完全に否定しちゃっているじゃないか。そんなことできる訳ないだろう。そんなのが出来るのは死人しかいない。パウロは間違っている! 異常だ! 死人だ! …」
そんな新藤君の言葉を訊いて、誠一はこう答えた。
「確かに君の言っていることはあたっている。それに、多くの《信徒》たちや、《牧師》たちは《綺麗ごと》ばかり言って、人間の《内側》にある《どろどろ》したところなど全くないような振りをしている! パウロの言うことはパウロの言うことでそのまま《受け入れて》おきながら、自分たちは自分たちで《別の規準》を設け、パウロの言うことと全然違う《生き方》をしているし、自分たちがいかにパウロの言っていることとずれているか…については何の不思議も感じていないのは新藤君、君の言うとおりだよ!」
新藤君は誠一の返事に満足したのか
「《牧師》なんかそのこと全然わかっちゃいない!」と嬉しそうに相槌を打った。誠一はそんな新藤君がいじらしくて、ついこう付け加えた。
「ぼくは新藤君、君の言うことがよくわかる。要するにパウロの言ったことをそのまま実行しようとしているんだよ、それは、でもそれじゃ苦しいはずだよ」
「別に全部じゃないけど、できるだけ《聖書》に書いてあるようにしなきゃ。ねえ、そうは思わない?」とあたかもそうするのが当然であるかのように喋った。
「そうね、たぶん君の言うことが正しいと思う。それにしても、《牧師》も《信徒》もパウロの言っていることを《本気》でやってみもしないで、まるでパウロの言ったことが簡単に出来る…ものと勘違いしているね」………実際、新藤君のように聖書の言葉を文字どおりそのまま《真剣》に実行しようとしている人間を誠一はこれまでみたことがない。

             ………………

 誠一はこの一人の愛すべき《分裂病者》と交友を深めていった頃、それまでずうっと《情熱》を注いできた教会生活にも少しづつ変化の兆しが訪れていった。その教会では五、六人の信徒たちが礼拝を守っていたが、あるとき二十六、七歳の男性が新しく教会の礼拝に出席するようになった。おでこが禿げているため年齢のわりに老けて見えたが、なかなか知的なタイプ、それでいて傲慢なところのない、物腰の柔らかい青年が礼拝に出席するようになった。はじめの頃、この青年は説教を聞いた後、応接室で一緒にお茶を飲むこともなく、そのまままっずぐ帰っていった。そのうち誠一たち教会員の顔を覚えると少しづつ喋るようになり、やがて自分の考えも話すようになった。そんなある時、この青年は新藤君と誠一が恒例にしている喫茶店での午後の会合に加わることになった。そのころ、S牧師は誠一があまり新藤君を大切にするので多少不満をもっていたが、それに加えてまた新しい《求道者》までも誠一の味方につく…のではないかというような《嫉妬》を持つようになっていった。誠一自身は別にS牧師を困らせる積もりはなかったが、S牧師にとって誠一の態度のひとつひとつが気に入らなかったようであった。礼拝が終り、みんなでお茶を飲もうとするとき、S牧師は大きな怒ったような声で誠一にこう《文句》を言ってきた。
「依田さん! 教会のなかではそんな《話し》はしないで欲しい! してもいいから会堂の外でしてほしい…」とS牧師は強い口調で誠一を咎めた。瞭かに怒っていた。けれど、S牧師が何故そんなことを言うのか誠一にはさっぱり分からなかった。そこで、誠一はとにかく「わかった…」と言って、あっけにとられたままS牧師の指示に従った。会堂には誠一と新藤君のほかに、《木闇さん》、《Mさん》、《まさみちゃん》、《さっちゃん》、《近藤さんのおばあちゃん》、それに新しくくるようになった《大森さん》などであったが、みんな何が起こったのかさっぱりわからなかった。

           ……………

 当時、聖書研究会に出席していたのは誠一とその他一名ないし二名の《求道者》と呼ばれるひとたちであった。一般に《求道者》たちは大学生だったり、中年の女性だったり、あるいは年齢や性別に関係なく人生そのものに悩みを持っていたり、人生そのものについて真剣に考えているひとびとのことを《求道者》って言っているのだが、時によっては近所の《信用金庫》に勤めているお嬢さんたちが何人か一緒になって《讃美歌が歌いたいから…》といってくるような場合もあった。が、一般に日本の場合、教会というものの敷居が《高い》せいで訪れるひとびとの数は非常にかぎられていた。たぶん、キリスト教というものそのものが日本の文化風土に合わないものを持っているからかも知れないし、あるいはこの日本という文化があまりにも《俗物的》になり過ぎてしまっているからかもしれない。いずれにしても、この日本でまともに《キリスト教》と接する…ということそのもの、そのような出会いを求めること自体あり得ないことなのかも知れない。一般に、日本のキリスト教徒の数は百万人ぐらいと推定されるのであるが、この数が多いのか少ないのか、それはそれでおいておくとして、創価学会の会員数が九百万人ぐらいというのだから、他の宗教の人口のちょうど十分の一といったところであろうか。

 さて、S牧師がまだ洗礼を受けてクリスチャンになる前、当時武藤牧師が教会を牧していたころ、彼は熱心な求道者のひとりであった。多くの求道者が教会を訪れては去ってゆくそのような中で、彼はずうっと求道生活を続けた数少ないひとりだった。やはり彼は普通の求道者とは違っていた。忍耐強さが違うのである。人生に対する取組みの真剣さが違うのである。教会を訪れる多くのひとびとは《何かを求めて》やってきては、他の多くの宗教が約束するような《後利益的》なものがあまり期待できないことが分かると、やがて去ってゆく。また、真剣に人生に取り組んでいるひとでも、多くの場合、《罪》というこの《ことば》あるいはこの《概念》につまずいてしまい、どうしても日本においては《キリスト教》というのは流行らない…のである。逆に、この《罪》という概念と積極的に取組んで、それと《格闘》してそれを乗り越えて《信仰》に入ってくるような場合、今度は非常に《熱心な》クリスチャン…になってしまうのかもしれない。このS牧師もそれに例外ではなく、《真面目》で、《信仰熱心》なクリスチャンなのである。顔つきは多少気むずかしい感じで、理知的な冷たい雰囲気があるが、実際にはその反対で、こころの温かい内容のある人物である。ただ、あまり冗談を言ったりしないので損をしていた。誠一は十数年の信仰生活を通して、S牧師以外にも多くの素晴らしい牧師や信徒を知るようになっていった。

 さて、誠一とS牧師との間でそんなことがあったあと、誠一たちはいつもと同じように会堂の応接室で《懇談会》をもっていた。それまで誠一は意識していなかったが、あの一件があってから誠一ははじめて自分が間違っていたような気がしたのである。つまり、それまで誠一はいつもこの《懇談会》の中心的な役割を果たしてきたのであるが、そのことに一向気づくことがなかったのである。したがって、その日以来、誠一はできるだけ自分を抑えるようにし、今度は逆にS牧師がこの《懇談会》の中心ととなるよう誠一の態度が変化したのである。

 ひとりひとりの前には茶碗に入ったお茶が配られ、テーブルのまん中には《お煎餅》や《お菓子》が入った大きな容れ物とポットが置かれ、教会学校の生徒である《幸ちゃん》や《まさみちゃん》、信徒の《木闇さん》、《Mさん》、《近藤さんのおばあちゃん》、《新藤君》、それに新しく教会に訪れるようになった《大森さん》、そして《S牧師》などが席について、みんなが楽しく懇談している…。

           ………………

「幸っちゃん! どう、受験の法の準備は大丈夫?」とS牧師は幸っちゃんに訊いた。
「先生、そんなこと聞かないでよ! いいから、いいから…」と幸っちゃんは上手に逃げ、
「それよか、先生、今度の日曜日どうするの?…」と教会学校の話題に話頭を変えた。
「幸っちゃんはいつにになっても遊ぶことしか考えないんだから、まったく、……」とS先生も機嫌よさそうに答えた。

           ………………

 信徒たちは皆んな《素朴な》人々であった。《近藤さんのおばあちゃん》は八十過ぎだが、元気で飾らない気さくなひとであった。典型的な明治生まれのひとで、なんでも早くのうちに夫を肺病(=結核)で亡くし、苦労して三人の子供を育て上げたそうである。昔はリヤカーを自転車で引張りながら炭屋を営んできたらしいのだが、今では鉄筋の三階建ての立派な燃料店になって息子さんが取り仕切っているそうである。また、この近藤さんのおばあちゃんのお孫さんのひとりがS先生と同じ神戸の神学校を卒業して今では四国で牧師をしているそうである。この近藤さんのおばあちゃんのほかにも、女性では《川村さん》と《富田さん》がよく子の教会にきていた。《川村さん》は、ほっそりとした体躯で、縦に長い丸顔でちょっとかわいらしい感じの三十五、六の奥さんで、なんでも北海道出身で、以前はカトリックだったそうだが、四年生の男の子と二年生の女の子の二人の子供がいる…と言っていた。多少病弱ぎみだが、上品で控えめな態度でまわりのひとびとに優しく接していた。対照的に、《富田さん》は四十二、三のおばさんで物腰は多少粗っぽい感じなのだが、やはり気さくなひとだった。このひとは顔こそ多少ごっつい感じだが、なかなかどうしてどうして、きわどい《会話》をさりげなくやってのけ、さっとかわしてしまう絶妙な才能を持っていた。いわゆる教会関係の真面目なタイプの人間には絶対にわからないようなそのような実に絶妙なユーモアの感覚を持っていた。彼女は離婚していて二十になる娘さんがひとりいるそうであるが、いつも明るい微笑で上手に相手を喜ばせてくれる素晴らしい人物であった。《木闇さん》と《富田さん》と《誠一》の三人はよく意気投合したものだった。

 誠一にとって、《木闇さん》、《幸っちゃん》、《まさみちゃん》、《Mさん》、《新藤君》、《大森さん》、《近藤さんのおばあちゃん》、《川村さん》、《富田さん》などは、なつかしいひとばかりであった。誠一は皆から好かれていたし、皆と非常に仲良くやっていた。けれど、その頃の誠一はS牧師の《こころ》のなかを深く思い至ってあげられるまでには十分生長してはいなかったのである。




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第一章 回想
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一  存在の奥義 前半
一  存在の奥義 後半
二   魂の食事
三  出会い 前半
三  出会い 後半
四  変化の兆し 前半
四  変化の兆し 後半
五  世界認識
六  なつかしい人々
七  離別への決意
八  自問自答
九  分厚い封書
十  反逆者の内面
十一 宗教談義
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本格小説
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■ 『異常なる感性』
第一章 回想
第二章 饗宴
第三章 Ωの輝き

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論文集
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■ 『信のたわむれ』 
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』


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関連記事:
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『モツニ自らを語る(その2)』
『モツニ自らを語る(その1)』
『Ωの輝き』 《解説(その2)》
『Ωの輝き』 《解説(その1)』
「産経新聞はアホや」について
「産経新聞はアホや」(つづき)
『一即一切』について
『色即是空』について
「価値なき神」の哲学日記 bQ09について

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関連ブログ:
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■ ライブドア・ブログ
(世相、時事、哲学、宗教、政治、経済、その他)
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(AI、意味処理、知識処理;脳科学、神経科学;機械翻訳、その他)
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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
この部分に出てくる人物たちはすべて実在に人物をモデルにしています。既に他界したおばあちゃんあるいは癌で死亡した”木闇さん”をはじめ、20年の歳月はある意味でそれなりの変化をもたらすような期間ではあるかもしれません。また、ここではじめて”大森さん”のことが出てきます。この大森さんは小説の第二章での中心的な人物になるのですが、ここで展開している内容は概して、いろいろなひとびとのことの回想そのものです。
モツニ
2005/12/09 11:21
”幸っちゃん”や”まさみちゃん”はある意味で実名です。尤もこれが実名であっても本人たちに直接影響があるわけでなないばかりか、別の意味では非常に”名誉”なことになる可能性があります。つまり、この『異常なる感性』という作品がほんとうに”名作”として人類の歴史に留まることになるとすれば、ここに展開されている比較的少数のひとびとのことは後に非常に”有名”になるかもしれません。
モツニ
2005/12/09 11:25
明治通り沿いの脇道に入ったところにある”荒川区”の”キリストの教会”といえば、きっと誰でもわかるようなそのような”時代”になるかもしれません。別に”キリスト教批判”でも”牧師批判”でもなく、もっと本質的な”宗教批判”そのものなのです。つまり、この作品が狙っているのは個々の”教会”や”牧師”たちの批判ではまったくなく、むしろ、この”荒川”の教会やこの特定のS牧師についてはそれなりに”なつかしく”感じていることをあらためて認識していただきたいのです。
モツニ
2005/12/09 11:30
モツニがこの小説で狙っているのは、単なるキリスト教批判ではなく、キリスト教そのものが限りなく虚偽の宗教であったとしても、そのような”虚偽”のキリスト教の中で、”真実”の”信仰”の道を歩んでいる人物たちが非常に少ないかもしれないけれど、確かに”いるんですよ!”ということを”逆説的”に示すことがもうひとつの”狙い”でもあるのです。
モツニ
2005/12/09 11:33
つまり、1億人のなかのほんの100万人がクリスチャンなのですが、その100万人のなかからほんとうの”クリスチャン”が数名出てくる可能性が”ある!”というのがその主旨のひとつなのです。つまり、確率的には1億人に数名の確率でほんものの”信仰者”というものが出現しているのですよ…ということを示したいのがひとつあります。
モツニ
2005/12/09 11:36
しかし、そのような確率統計てきな一切の事柄より本質的に重要なことがら、それがこの”依田誠一”と”新藤毅”との決定的な出会いなのですよ…というのがその本当の狙いなのです。つまり、この二人の出会いの意味はフッサールとハイデッガーとの出会い、ソシュールと丸山圭三郎との出会いといったもとの同じような意味合いがあるということを意味しているのです。
モツニ
2005/12/09 11:39
実際に、依田誠一は新藤君との出会いによって”意味論的空間トポロジー”という人類史上かつて一度もなかったまったく新しい学問を創出してしまったからなのです。ただ、この学門を世界のひとびとにリリースするには世界のひとびとの”倫理性”があまりにも”低い”水準にある現在、絶対にしてはいけない!というのがモツニの見解なのです。
モツニ
2005/12/09 11:43
つまり、現在、このブログでモツニが実験しているのは、このような超本格的な異常な小説を人類にはじめてリリースすることによって、人類の”質”そのものが”変化”するように促がしているのです! わかりますよね、なぜって、人類がほんとうに”人工知能”のシステムを創るのであれば、少なくともアインシュタインが犯したような超愚かな失敗は許されませんよね! つまり、勝手なことを人類が絶対にしない!というような明確な保証をどのように”担保するのか”、そのようなことが極めて重要になりますよね!
モツニ
2005/12/09 11:46
人類が”原爆”を作ったまでは”神”は許してくれた…と思うのですが、人類が人類の上に”原爆”を落してしまったこの”現実”、このことは”神”は決して許してはいない!と思うのです。したがって、ある意味で、人類は自分自身で原爆の本当の悲惨さを体験していまうであろう…ということが当然予想されますし、実際にそのような世界最終戦争の方向ですべての国家が超ウルトラ全体主義化へとシフトしているではありませんか!
モツニ
2005/12/09 11:51
この『異常なる感性』という作品の存在意味は、仮に人間が”人工知能”を生み出してしまったとしても、人間が生み出した”人工知能システム”と本来の”人間の知能”そのものが”共存”できるようになるには、本来の”人間”はどの程度の”倫理レベル”を維持しなければならないのであろうか?といったことがらも、この文学の射程のひとつに含まれているのです。
モツニ
2005/12/10 10:34
あるキーワードで検索したらいきつきました
実名も良し悪しです
できれば仮名が身内にはうれしいです
たぶんもうきません
はじめましてそしてさようなら
2006/05/18 00:15

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『回想T』 《なつかしい人々》 哲学日記/BIGLOBEウェブリブログ
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