哲学日記

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zoom RSS 『信のたわむれ』 《デカルト批判の批判》

<<   作成日時 : 2005/11/02 08:20   >>

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二 デカルト批判の批判

 私はデカルトの信奉者ではない。しかし、単純なデカルトの批判者でもない。私はデカルトを評価し同時に批判する。私がデカルトを評価するのは私が彼と彼の後継者たちが連綿と築いてきた物質文明の恩恵に感謝したからでもない。また、彼の明晰な解析学のためでもない。私が彼を評価するのは、《類似性》、《相似性》、《象徴性》、《神秘性》など諸々の複雑な重合体に錯綜していた《当時の言語》をすっきりした《明解》な言語に《還元》してくれたからなのである。

 しかし、私が彼を批判するのも《同じ理由》によるのである。今日、われわれが日常使用している言語は不要なものを《極限》まで《捨象》してしまった、いわゆる《伝達の言語》、《ルポルタージュ言語》に格下げられてしまったからなのだが、それはデカルトに責任があるのではない。責任があるとすれば《惰性化》したわれわれにある。そしてそのような《惰性化》から覚醒し、デカルトの《自明性》を根源から疑った人間たちがニーチェであり、ソシュールであり、フッサール、ハイデッガーたちなのだ。これらの人間が目指していた運動は単純なデカルト批判とは百八十度異なる発想を持っていた。デカルト批判者たちは時計の針を逆に回せと叫んでいるだけなのに対し、ソシュール、ニーチェ、ハイデッガーたちは「時計の針をまず三百六十度《正方向》へ回転させ、さらに針が《朝》を示す活力ある《あの位置》へ戻せ…」と言っている。

 デカルト自身はわれわれが彼の思想によって必然的にもろもろの《特異点》を発生させるであろうことまでは思い及ばなかったであろう。彼自身、別の意味で《特異点》すなわち《中世の狂気》を味わっていたのだから。いま、われわれはデジタル文明そのものから帰結する大きな《脅威》に曝されつつある。しかし、ゲーデルの定理の証明に限らず、すべて《現代的な問題》はあの『ゲド戦記』の主人公ではないが自分の影との戦いではないのか。ちょうど、田川氏、八木氏たちが自分たちの影と戦ってきたように。

 デカルトの批判者たちにわたしは問う、「君たちは自分との影と真剣に取り組んだことがあるのか」と。また、デカルトの信奉者たちにも同様に私は問う、「君達はあの《闇》、あの《深淵》まで追求するだけのデカルト信奉者になれるか…」と。デカルト主義の《終点》はあの《特異点》、すなわち、《精神分裂病》であり、《言語そのものの深淵》であり、《存在そのものの闇》であり、《生命の起源》であり、《宇宙の果て》であり、数学的に言えば、《超越超限帰納法の極限》であり、《射影的極限》、《帰納的極限》、《Zornの補題》、《意味論的空間トポロジー》の創出であり、AI風に言えば、《稠密な人工ニューロン》であり、《超難問なフレーム問題》であり、《超越的な自己言及現象》であり、有限回帰、無限回帰を含んだ《自己回帰》現象である。イメージ的には、あのエッシャの《騙し絵》、特に《プリントギャラリー》のあの絵そのものが《特異点》そのものを暗黙に意味しているのである。

 現代思想は《デカルト信奉者》と《デカルト批判者》それに《デカルト再評価者》などがそれぞれの立場に分かれてそれぞれの主張を展開しているが、それらいずれの立場においても、つきつめれば《精神》の存在は《幻想(=付随現象、=随伴現象、=非実体…)》か否かという議論に集約される。すなわち、あの田川と滝沢の《議論(=対決)》と基本的には同じ構図をとっているのである。

 コンピュータの発達に伴って、人工知能、認知科学、認知心理学、あるいは、意味処理、知識処理、知識ベース、さらに、メンタルモデル、認識モデル、学習モデル、記憶モデルといった諸モデルの設計および開発、さらに、大脳生理学の発達および脳内現象の精密な観察装置、たとえば《X線断層撮影装置》、あるいは《核磁気共鳴画像》などの発達により、結果的に《脳科学》、《脳神経科学》、あるいは単に《神経科学》と呼ばれるいわゆる《観察科学》が急速に発達しているのであるが、このような冗談のような科学で《人間存在》の本質がどれだけ《洞察》できるのであろうか。

 昨今、バカのひとつ覚えのように《クオリア》、《クオリア》って騒いでいる諸学者たち、諸精神科医たちがいるようだが、彼等は《キルケゴール》、《フッサール》、《ミンコフスキー》、《ビンスワンガー》、《アンリー・エー》、《ハイデッガー》、《メルロポンティ》といった一連のひとびとが展開した、《認識》、《意識》、《精神》、《主観性》、《主体性》、《内面性》、といった非常に《根源的な》諸概念についての《深い》洞察について、どれだけの《洞察》を持っているというのであろう。別に《現象学者》になれとか、《存在論者》になれとか、天才レベルの哲学者になれと言っているのではない。そうではなく、そもそも《意識》、《認識》、《主観性》、《内面性》といったことがらを問うことは、《言語そのもの》を問うこと、《生命の起源》を問うこと、《宇宙の果て》あるいは《ビックバンそのもの》を問うこと、《連続体仮説》の極限そのものを問うこととおなじような射程で《考慮》されなければならない《途轍もなく》大きい問題である…というあたりまえのことをいっているのである。

 私はデネット、ドーキンスたちが好きである、しかし、デネットやドーキンスたちのレベルでの《意識》あるいは《主観性》の理解のレベルではこの問題は決して解決できないことは《保証》する。同様に、チャーマーズも人間的には嫌いではない。しかし、デネット、ドーキンスたちと同様、彼のレベルの洞察では《意識》あるいは《主観性》の問題は永久に解けないことは《明白》である。《意識》の問題を徹底的に展開するということは、キルケゴールが《不安の概念》および《死に至る病い》で《不安》の概念について《徹底して》分析したような、そのような凄まじいレベルあるいはそれ以上のレベルで《意識》および《主観性》について《洞察》できなければならないことを意味しているからなのである。

 要するに、《デカルト派》も《反デカルト派》も同様にレベルが低過ぎるというのが私の結論なのである。それでは、どのような立場が本質的に正しいのであろうか? 結論からいえば、《デカルト派》であり、かつ同時に《反デカルト派》その両方をひとりで同時に《洞察》できることが《必要十分条件》なのである。つまり、最も徹底した《唯物論者》、《一元論者》、《還元論者》であり、かつ最も徹底した《観念論者》、《非一元論者》、《非還元論者》であることがそれなのである。

 わかりやすい例えでいえば、《風船》と《空気》の関係を考えた場合、意識というのは《空気》のようなものであり、それは存在するのであるが、風船という《実体》という《属性》をもった《装置(=大脳)》がなければ《観測(=主観的観測、=非客観的観測、=個別的観察…)》されない…というそのような図式なのである。要するに、徹底的に《唯物論者》であり、かつ、徹底した《現象学者》の質を同時に要求されるそのような世界なのである。

 チャーマーズは一見すると《現象学者》たちの立場も考慮しているように映るが、その実、《フッサール》も《キルケゴール》も《ハイデッガー》もそして《ソシュール》すらまともに理解できていない。一方、デネット、ドーキンスたちの立場は《還元論》、《一元論》といった《明確性》、《簡明性》を全面的に主張しているようだが、とくに、デネットなどはもろもろのいわゆる《思考実験》とやらで、非常に巧みに自分の立場の《正統性》を主張しているようだが、少なくとも、《一元論》あるいは《唯物論》を全面的に展開するのであれば、私のように《意味論的空間トポロジー》という新しい学問を創出した上でものを言ってもらわなくては困る。

 以上、デカルト批判の批判と題して、非常に簡単ではあるが、《人工知能》、《認識》、《意識》の問題について、その議論の《根源》がどの辺りに《内在》しているのか、そこのところを非常に簡単にではあるが素描してみた、このテーマは『現代のたわむれ』で本格的に議論されることであろう。


 ワタシニ聞クトイウノデハナクテ、言ワレテイルコトワリソノモノニ耳ヲ傾ケテ
 万物ガ一ツデアルコトヲ、言ワレテイル通リ認メルノガ智トイウモノダ

                  --- 断片 50 ---



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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき
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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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関連記事:

『一即一切』について
『色即是空』について
『信のたわむれ』《ロゴス空間》:後半 
「価値なき神」の哲学日記 bQ09について

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参考文献:

『ヘラクレイトス』        ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』          山崎弁榮;光明会編

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』        田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』        田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』         田川建三;大和書房

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『言葉と物』           M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』          J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』          ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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『精神分裂病 上下』       ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』          ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』     ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』        ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』       フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』      木村敏;弘文堂

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『ゲーデル・エッシャ・バッハ』  ダグラス・ホフスタッター;白楊社
『意識する心』            デビッド・チャーマーズ;白楊社
『解明された意識』        ダニエルデネット;青土社
『ダーウィンの危険な思想』    ダニエルデネット;青土社
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『集合と位相T』    彌永昌吉、彌永健一;岩波講座 基礎数学
『集合と位相U』    彌永昌吉、彌永健一;岩波講座 基礎数学
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