哲学日記

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zoom RSS 『信のたわむれ』 《非ロゴス空間》:前半

<<   作成日時 : 2005/10/30 09:02   >>

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三 非ロゴス空間

 残念ながら私は悟った人間ではないので、私のような人間が《非ロゴス(=本覚、=天才、=即非、=非言語、=非論理、=闇(存在)、=闇(言語)、=逆説、=分裂病など)》について語る資格はないのであるが、悟ったことのない人間があたかも悟ったと仮定したその《類推したイメージ》として語らせていただきたい。いまだかつて《死》について実際に経験した人間などいないにも拘わらず、《死》あるいは《死後》についての数々の《神話》、《文学》、《詩》、《絵画》、《哲学》、《思想》、そして《想像》、《イメージ》が生まれてきたように、ここでの論述はあくまで、自分自身では《非ロゴス》の空間まで到達したことのない人間であるが、あたかもそのような《人間》がみた《非ロゴス》という《空間》がどのような《空間》なのか…という観点で論じてみたい。

 第三章で簡単に説明したように、《ロゴス空間》が《イエス》を《窓口》とする《入門空間》であるとすれば、《ロゴス空間(=入門空間)》からロゴスの反転を経験し、《反ロゴス空間(=物質空間、=唯物論空間、=無神論空間)》の展開を経てそれぞれの《特異点》に達した後、その《極限(=超越斜影的極限、=超越帰納的極限、=超越超限帰納法的極限、…》で何らかの《飛躍(=超越、=悟り、=覚醒、=非連続性、=非線形性、…)》を経て到達した《空間》それが《非ロゴス空間(=非論理、=非言語、=逆説、=背理、=矛盾、=自己言及、=自己関係、=無限回帰、=自己回帰…)》である。したがって、この《空間》は《仏教国》を意味するものでも《仏教徒》を意味するものでもない。《仏教徒》がその《本願》の最終的な到達点に置いているその《極限》のことを指しているのである。私自身、自分がそこに到達できるかはなはだ疑わしく思っている。また、私自身は《仏教徒》としてそこをめざす人生を展開しようとは一切思っていない。ただ、私自身は《特異点》のだいぶ手前になるかもしれないが、自分が生まれてからいまのこの時点までの自分の《人生行路》で、《学び》、《体験し》、《想像したこと》それら一切を、精神分裂病の起源を主題とした一万ページを有に越える超大河小説を計画している。その小説が必ずしも純粋な《非ロゴス空間》からのロゴス化ではないが、できるだけそれに近いものとなるよう修行している最中である。

 さて、私がこの《空間》の説明で展開したいのは、いかなる《非ロゴス的》な《体験》あるいは《直感》、《認識》であっても、その《非ロゴス性》を体得した者はたとえどのように《不完全》なものであってもぎりぎりまで煮詰めて必ず《ロゴス化》しなければならないという考えなのである。実際、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、マルクス、フロイト、フッサール、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、ソシュール、ジョイス、プルースト、ヘルダーリン、ウィットゲンシュタイン、あるいは、道元、臨済、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮といった一連のひとびとがまとめた思想、あるいは聖書、コーラン、ヴェーダなど、更には諸々の《神話》、《民話》、《童話》、《伝承》、あるいは、《美術品》、《絵画》、《音楽》、《記念碑》など、それら書物あるいは歴史的遺産は《宗教》、《哲学》、《思想》、《心理学》、《文学》、《詩》などジャンルは非常に異なっているが、本来ことばで表現できないものを《表現》しようとして生み出された《結晶》であると思っている。それ故、われわれはそこから多くの《謎》や《ヒント》を再び発見しなければならないと思っている。人間存在の根本に《言葉(=ロゴス)》、《物質(=反ロゴス)》が必要であることはいうまでもないが、人現存在には《言葉》と《物》だけでは絶対に埋めることのできない《隙間》があることも事実である。それをあるひとは《芸術》であるというし、あるひとは《宗教》であるという。また、別のあるひとは《こころ》であるという。いずれにしても、《ロゴス(=言葉)》でも《反ロゴス(=物質)》でもないもうひとつの《側面》としての《非ロゴス》、すなわち《非ロゴス(=非言語、=闇、=沈黙、=矛盾、=逆説、=詩、=悟り、=謎、=超越、=無意識、=知恵、=深淵、=淵源、=カオス、=権力への意志、=生命の躍動、=いきられる時間、=存在そのもの、=言語そのもの…)》というものが人間存在には絶対に必要な要素なのである。

 通俗的な《キリスト教》、通俗的な《仏教》、通俗的な諸々の《宗教(=幸福の科学、=創価学会、=天理教、などなど)》は自分たちの《宗教》のみがこれらすべてのものを提供できると主張しているが、現実にはそのような主張(=自分たちのみが真理であるという)はすべて嘘である。《キリスト教》の教えであれ《仏教》の教えであれ、ひとがそれぞれ自分固有の《非ロゴス》を獲得するのは、自分の一回かぎりの人生を通して諸々の《運命(=試練、=懲らしめ、=苦境、=逆境、=極限…)》を通してのみはじめて《覚醒(=洞察、=理解、=悟り…)》するものなのである。入信することによって《自動的》に与えられるものではない! もちろん、恋愛のように新鮮な《熱狂》に瞬間的には駆られることもあろう。しかし、いかなる《熱狂》であれやがて《惰性化》するのである。また、ここで注意しておかなければならないが、私はすべての人間が《宗教》から離れろと言っているのではない。そうではなく、ひとが特定の宗教に入信するのは一向に構わないがその《宗教》の教義のみが絶対的な《真理》であると《妄想》することから《信仰(=ロゴス)》そのものの《惰性化》がはじまるといっているのである。つまり、そのような信仰からの《惰性化》から根源的に離れるためにはどうしても《非ロゴス》的な現象に《触発》されなければならないということをいっているのである。その意味で八木は正しい。ただし、あの八木の《純粋直感》は八木本人にとってのみ《妥当》するようなそのような水準のものであって、八木の《純粋直感》を本来的な《非ロゴス》の《ロゴス》として万人に納得されるだけの《ロゴス》として展開するには、ハイデッガーの『ヘラクレイトス』で展開されているような根源的なロゴス、すなわち、《ロゴス(=収集、=収拾、=根源的な収集、…)》といったところまで溯って《ロゴス》の《ロゴス性》、《反ロゴス性》、《非ロゴス性》といったことがらを《根源的》に遡及しない限り永久に無理である。
 いずれにしても、既成宗教の《惰性化》、物質文明の過剰な《合理化》およびそれに伴う《文学》、《芸術》の《貧困化(=商業化、=大衆化、=陳腐化)》。あるいは《哲学》の矮小化、《神話》、《民話》、《伝説》、《童話》、《昔ばなし》の衰退、《ファンタジー》の欠落、人間の《ゾンビ化(=自動人形化、=ロボット化)》、《金権政治》の常識化、日常化、その他際限のない諸々の《フェティシズム》が跳梁跋扈する現代、《非ロゴス》の復権はひとりニーチェやキルケゴールだけでなく、すべての《非ロゴス的》な人間の叫びではなかったか。私は《キリスト教(=ロゴス空間)》から完全に離れた、しかし《キリスト教》そのものが完全に消滅してしまえ…とまでは言っていない。同様に、私は《仏教》に一度も足を運んだことはないが、これからも《仏門》に進むつもりはまったくない! なにも仏教が《惰性化》しているからという意味ではない。仮に《仏教界》がきらきら輝いていたとしてもやはり仏教に進むつもりはない。なにも自分にとって《悟り》が不可能であるからといってあきらめてそう言っているのでもない。そうではなく、ニーチェ、キルケゴール、ソシュール、ハイデッガーといったひとびとの方が本物の《非ロゴス》的な存在様式を展開していると思っているからなのである。私自身、百万回逆立ちをしても彼等の水準に到達できないかもしれないが、それでもニーチェ、ソシュール、キルケゴール、ヘルダーリン、ジョイス、プルースト、エンデ、ハイデッガーといったひとびとを私は手本としたいのである。



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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき
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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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関連記事:

『一即一切』について
『色即是空』について
『信のたわむれ』《ロゴス空間》:後半 
「価値なき神」の哲学日記 bQ09について
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参考文献:

『ヘラクレイトス』        ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』           山崎弁榮;

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』          田川建三;大和書房

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『言葉と物』            M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』           J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』          ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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『精神分裂病 上下』       ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』           ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』     ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』        ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』      フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』      木村敏;弘文堂

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『ゲーデル・エッシャ・バッハ』  ダグラス・ホフスタッター;白楊社
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『集合と位相T』    彌永昌吉、彌永健一;岩波講座 基礎数学
『集合と位相U』    彌永昌吉、彌永健一;岩波講座 基礎数学
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『フロイド選集 (全17巻)』  フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来

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