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zoom RSS 『信のたわむれ』 《ロゴス空間》:後半

<<   作成日時 : 2005/10/28 08:43   >>

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b アメリカ 対 日本

 ここでは、《ロゴス的》な理念を言表する国としての《アメリカ》と、《非ロゴス的》な国を象徴する国としての《日本》、すなわち、《ロゴス(=基本理念)》を言葉(=ロゴス)として明示的に言表(=ロゴス的行為)しない国としての《日本》をあげ、その対話がどのように《展開》されるのか、それをみてみたい。読者は第一章の滝沢対久松の対決(=友情)を思い出していただきたい。ここでも、滝沢(=アメリカ)対久松(=日本)という図式は厳密には当て嵌まらないし、また無理に当て嵌める必要もないのだが、あくまで《説明の方便》として《アメリカ対日本》という図式をもって《ロゴス対非ロゴス》という抽象的な《関係》について論じてみたい。aでは、《アメリカ対第三国》という図式を示したが、そこで示しかかったのは《ロゴスの”絶対性”はそれ自身の”絶対性”を”無制限”に主張することによって、それ自身矛盾した”帰結”を招いてしまう…》というこのことであった。つまり、ある意味で《ゲーデル的》な《逆説》の構図が実際に展開しているということなのである。

 このbでも同様なことがらが主張されるのだが、最初に断っておきたいことだが、アメリカの立場を擁護するとか日本の立場を擁護するとかそういう立場そのものに立っていないということがひとつある。ここで《展開》されている議論は日米問題の打開について論じている訳ではないし、また、《非ロゴス》といっても別に《仏教空間》という意味での《非ロゴス》ではないのである。つまり、ここでは、アメリカの《ロゴス性》とは《原則を立てて、それによってものごとを処理する…》という基本的な《態度》、《考え方》を意味しており、一方、日本の《非ロゴス性》とは《できるだけ”原則をあいまいにして”それによってものごとを”柔軟に”処理する…》といったような基本的な《含み》、《考え方》を意味しているのであり、この両者が対話した場合どのような《帰結》が得られるか…ということを問題にしているのである。ここで注意して頂きたいのだが、原則を立てる立てないといっても、あくまで図式的な《説明の方便》として語られているに過ぎないということなのである。現実には、《原則(=ロゴス)》を重視するアメリカだって《本音(=非ロゴス)》と《建前(=ロゴス)》を使い分けているように、また、《原則(=ロゴス)》を《曖昧(=非ロゴス)》にする日本だって実利の《原則(=ロゴス)》をしっかり立てて《ことの》処理にあたっているということである。更に、ここでも、《仏教(=非ロゴス)》対《キリスト教(=ロゴス)》という図式は全く当て嵌まらないということなのである。つまり、現実問題としての日米対話は既に両者とも《無神論者》すなわち《唯物論者(=反ロゴス)》たちなのだから。

 さて、以上を前提に《日米対話》すなわち《ロゴス対非ロゴス》というものがどういう《構造》になっているか…ということを分析してゆきたいのだが、繰り返すがこの《分析》の目的が日米の貿易摩擦の解消とか改善とか、あるいは、日米の文化交流の相互理解の掘り下げなどということとは全く関係がないということなのである。それ自体極めて《反ロゴス(=無神論、=唯物論、=物質主義)》的な構造をもっている日米両者にとってその《対話》の意味は《物質(=反ロゴス、=経済)》だけなのである。ある意味で、アメリカも既に《ロゴス空間(=キリスト教理念)》から脱落して《反ロゴス空間(=無神論空間、=唯物論空間、)》に移行し終わっているし、日本は日本で最初から《ロゴス空間(=キリスト教空間)》での学びを飛び越して、《ロゴス空間》からの重要な学びを経ることなくそのまま《無知》の《無神論空間(=反ロゴス空間)》に突入しているというまさにこのことなのである。要するに、アメリカも日本もそしてその他ほとんどの国が、《マルクス》、《フロイト》、《ニーチェ》、《ソシュール》、《ハイデッガー》といった《克服》の《無神論空間(=反ロゴス)》ではなく、状況の変化に立場がふらついている《無知》の《無神論》という意味での《反ロゴス空間》であることを頭にいれておいて頂きたい。(日米の首脳たちが、マルクス、フロイト…といった人間たちの思想を理解していないという意味ではないことに注意)

 最初にもどって、アメリカ対第三国との折衝で重要であった最大の問題点はその国が自国の経済を十分まかなってゆくだけの産業基盤が成立していなかったことにあると指摘したが、日米両国の関係についてはお互いの《対話》の《共通基盤》が確立していないという点なのである。経済ゲームは既に《展開》しているのだが両者が納得する《共通ルール》が確立されていないとうことなのである。つまり、あの滝沢と八木の対決(=友情)ではないが、物質(=経済)を軸とした《対話》においてひとつのウロボロスが生成されているのである。このウロボロスの原因は、すべてを《ロゴス(=原理、=原則、=理念)》で割り切ろうとするアメリカにも問題があるが、アメリカから受け取ったもろもろの《ロゴス(=要求、=問題点指摘、=反論、=反発、=嫉み、=嫉妬)》に対して、それを納得させるだけの《ロゴス(=回答、=逆提案、=、問題点指摘、=反論)》を展開できない日本の《非ロゴス性(=未熟、=未分化、=未処理)》にも問題があるのである。

 この《日本》対《アメリカ》、《非ロゴス》対《ロゴス》という《対話》の図式は、《ロゴス空間》における《ロゴスの絶対性》というものが否定されていると同時に《非ロゴス空間(=無知の無神論)》では、《非ロゴス(=難問、=難題、=矛盾等)》の《ロゴス化(=問題解決化、=問題分析等)》が絶対的に要求されているということなのである。つまり、ここで言いたいことは《ロゴス空間》、《反ロゴス空間》そして《非ロゴス空間》のそれぞれの絶対性は絶対的に否定されているというそのことなのである。

c ロゴス空間 対 ロゴス空間

 最後に、キリスト教(=プロテスタント)対キリスト教(=カトリック)あるいはキリスト教(=ロゴス空間)対イスラム教(=ロゴス空間)の図式を示して、《ロゴス空間》での問題点についての議論を終了させたい。

 《キリスト教対イスラム教の戦い(現在の対アフガニスタン、対イラク、対イランとのアメリカの図式)》、《キリスト教対キリスト教の戦い(現在は多少小康状態を保っているイギリスとアイルランドのIRAと英国国教会との関係)》、あるいは《ユダヤ教対イスラム教(これまでずうっと展開してきたパレスチナ問題)》、あるいは《共産主義対キリスト教(潜在的に人民中国とアメリカ)の関係》など歴史は《ロゴス空間》対《ロゴス空間》との敵対関係を克明に刻みつづけているが、これらの《展開》の推移は説明の余地がないであろう。互いに自己の《絶対性》を主張すれば《ウロボロス》の対決しかないからだ。これからどれだけ《対立(=戦争、=殺戮、=自爆テロ、=報復テロ…)》すれば、この《ウロボロス》の円環が切って落されるか、誰も予想することができない。ひとつの《可能性》としてはどちらかが一足早く神の《幻想性》に気づくことである。《フロイト》、《マルクス》、《にーチェ》、《フーコー》、《ソシュール》、《ハイデッガー》、《ジョイス》…といった人間の深い洞察に迫ることができるなら、やがて彼等(天才たち)が言っているように、《神は”幻想”である…》という言明の深い意味が《文化レベル》、《民族レベル》、《国家レベル》、《共同体レベル》等で《洞察》されることもあり得るかもしれないが、現実には極めて難しいことであろう。その理由として、国民ひとりひとりのレベルだけの問題だけでなく、その国民を支配、指導しているはずの人間ひとりひとりのレベルが極めて低いことにも問題があるからなのである。

 私はここで、《一神教(=ロゴス空間)》そのものの存在を否定しているわけではない。それらすべての《ロゴス空間(=宗教、=一神教)》が今後人類の歴史に長く続くとして、それはそれでかまわないと思っている。ただ、私自身、実際に《ロゴス空間(=キリスト教)》に入信し、そこから何を学んだかというと、《ロゴス空間(=キリスト教)》が教えている《隣人愛》という《概念》が完全に《欠落》している…とまでは断言しないが、事実上《不可能》なことである…という非常に深い《洞察》を獲得することができたのである。それは、あの《分裂病者との対話》でいろいろと暗示したはずである。 また、人類は何も無理して、あるいは《偽善》を装ってまで《隣人愛》を説かなくても、狂気に陥って無差別に殺人をしない限り、十分に《隣人愛的》な《行為》を実行することができる…と思っている。また、《神(=イエス、=ヤーウェ、=エホバ、=アッラー等)》という幻想?をまったく持たなくても、人類は十分に生存してゆくことが《可能》であると思っている。いや、むしろ《神》という概念すらない方が人間らしい人生を送れるのではないか…ぐらいにさえ思っている。しかし、注意していただきたい、このようなことが高らかに《言明》できるようになるためには、《ロゴス空間(=キリスト教)》に関わる関わらないに関係なく、何らかの根底的な《存在》問題のウロボロスに徹底的に鍛えられて、それぞれがおのおのの《独自》の《個人的》、《主観的》、《内在的》、《内面的》かつ《一回的》な自分だけの《答え》、《信仰》、《狂気》、《洞察》、《悟り》、《覚》、《本覚》、《決意》、《企投性》等を獲得しなければならないということなのである。

 多くの人間がいま現在《展開》しているレベルの《反ロゴス(=無神論、=唯物論)》では自分の根本的な《実存問題》をその《根底》から解決することができないばかりか、自分が《実存問題》を抱えている…ということそのものすら問題意識にのぼっていないことであろう。それほどまでに、現代人はあのマルクスやニーチェやソシュールの預言ではないが小人(=自動人形、=ゾンビ、=ジンボ、=人間型ロボット)になってしまっているのだから。

d 《ロゴス空間》のまとめ

 《ロゴス空間》はその《ロゴス性》を極限まで追求すると、必然的に《反ロゴス》を生み出す。また、《ロゴス》の絶対性を全面的に打ち出したとき、その《ロゴス》は自分自身を《否定》するように働く(ハイデッガーの『ヘラクレイトス』を参照)。しかし、《ロゴス空間》の存在そのものを否定しようとすることは、《反ロゴス空間(=物質空間)》および《非ロゴス空間(=逆説空間、=こころ空間、=芸術空間等)》までも否定しようとしていることを示している。これが《ロゴス空間》を超抽象的に(=数学の空間トポロジー的に)眺めたときの《ロゴス空間》の空間構造である。この考え方は《政治》、《経済》、《文化》、《文明》、《宗教》、《歴史》、《哲学》その他非常に幅広い概念の適用を《可能》にするが、《ロゴス》によって定立されたすべての《定理》、《公理》、《定義》、《概念》はそれが《ロゴス(=言葉)》である限り、必然的に《惰性化》する! この《惰性化》から逃れる唯一の方法は《ロゴス》を徹底化し、《反ロゴス》にまで成長させ、《特異点》を経由させて《非ロゴス(=発見、=飛躍、=覚醒、=悟り)》に至り、その《非ロゴス空間》を経て、また《ロゴス空間》へ戻ってくる…という数学でいうところの《Zornの補題》、《超越的超限帰納法》、《射影的極限》、《帰納的極限》といったような《無限反復》なのである! 宗教者からみればキルケゴール的《反復》であり、無神論者からみればニーチェ的《回帰》、《無限回帰》であり、覚者からみれば《輪廻からの離脱》の思想に通じるのである。ここでも注意していただきたい。仏教者は悟りを開いて《解脱》すればいいといった間違った思想があるが、本物の《覚者》は必ずおのれの《悟り》を《非ロゴス》の限界内で《表現》し、その《洞察内容》を必ず《ロゴス化》できるはずである。(私がこのような文章を書いているように…)それが《覚者》の使命のひとつなのである。なぜなら《非ロゴス(=仏教)空間》はそれ自体《ロゴス空間》から《ことば》、《反ロゴス空間(=物質空間)》からは《生活に必要なすべて…》を既に受けとっているのだから、《それ》を返すのは当然のことなのだから。ここで《それ》とはもちろん《非ロゴス》の内容の《ロゴス化》そのもののことである。尤も、私がいう《覚者》というのは《空海》、《法然》、《最澄》、《日蓮》、《親鸞》といったもろもろの天才たちだけでなく、ある意味で《ソシュール》、《ニーチェ》、《キルケゴール》、《ハイデッガー》なども含まれるし、《ダンテ》、《ジョイス》、《ドストエフスキー》、《ゴヤ》、《ゴッホ》、《ヘルダーリン》なども含まれる。また、それらの《非ロゴス的》人間から大いなる《触発》を受け、それぞれの分野で真剣に問題に取り組んでいる、すべての《キリスト教徒》、《仏教徒》、《無神論者》その他すべての人間を含んでいるのである。

 
 ワタシニ聞クトイウノデハナクテ、言ワレテイルコトソノモノニ耳ヲ傾ケテ、万物ガ一ツデアルコトヲ、言ワレテイル通リニ認メルノガ知トイウモノダ

                 --- 断片五十 ---- 




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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』
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関連記事:
『一即一切』 について
『色即是空』 について
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参考文献:

『ヘラクレイトス』        ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』          山崎弁榮;

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』        田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』        田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』         田川建三;大和書房

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『言葉と物』           M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』          J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』          ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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参考文献:
『精神分裂病 上下』     ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』         ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』   ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』      ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』     フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』     木村敏;弘文堂

『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホフスタッター;白楊社

『フロイド選集 (全17巻)』    フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来」

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