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zoom RSS 『信のたわむれ』 《ものの世界》:後半

<<   作成日時 : 2005/10/27 05:09   >>

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 《物質空間(=唯物論空間)》は《ことば空間(=キリスト教空間)》から必然的に生み出される《空間》なのである。それは《神》に絶望した…とか、《キリスト教》に幻滅を感じたから…というようなことではない。そうではなく、《ロゴス(=概念、=理念、=理論、=理(ことわり)など)》を徹底的に追求したその《極限》として《不条理(=カオス、=矛盾、=パラドクス、=逆説、=原爆、=アウシュビッツ、=オウム真理教、=9・11、=イラク戦争、その他)》が必然的に現われるのである。ちょうどゲーデルがあの有名な《不完全性定理》を示したように、《ロゴス》というものは必然的に《反ロゴス》を生み出すのである。何も《信仰》が深いとか深くないということとは次元が違うのである。

 あの田川と滝沢の《対決》を思い出していただきたい。両者は立場こそ違うがその《構造》は非常に近いものがあるといったのはこのことである。つまり、両者とも《ロゴス(=ことば、=原理、=原則、=根源、=原点)》に厳密に即応しているのである。言い換えれば《ロゴス》に極めて忠実なのである。だからこそ《田川が上で滝沢が下だ》とか《滝沢が上で田川が下だ》といった議論そのものに無理があるのである。人間存在の《根源》としての《ロゴス(=言葉、=理論)》、《反ロゴス(=物質)》、《非ロゴス(=逆説)》のそれぞれは互いに《独立》していると同時に互いに《依存》してもいるからなのである。つまり、どれかひとつをより深い《根源》だと主張することがそもそも誤りなのである。

 一例をあげれば、私はいまこの論文を書いているところであるが、《言葉》がなければこの論文は書けないし、また、私の生活の少なくとも最小限度の《必要》が満たされていなければやはり書けない。さらに、《ことば》と《生活》が満たされたとしても、《非ロゴス》、すなわち《ロゴス》を生み出す、それ自体《ロゴス》でない《それ》、ことばでは決して表現できない得体の知れない原動力である《それ》がなければこのような論文は決して書くことができないのである。私が《こころ》のイメージとしてもっている《それ》はいまこのようにして文章として展開されているが、わたしの《それ》はここまで文章として展開されてきたこの一連のディスクールとは厳密には一致していない。しかし、それでも文章にして表現するしか《あなた》に伝えるその手段はないのである。

 田川がしている《仕事》は古代の人間が《あそこ》で発見し、それ自体《ことば》で十分表現できなかった《それ》について掘り下げて研究していることなのである。つまり、《無神論空間(=反ロゴス空間)》にはいるが、《ロゴス(=信仰のイエス)》および《非ロゴス(=歴史のイエス)》を徹底的に研究しているのである。同様に、滝沢も《ロゴス空間(=キリスト教空間)》にいるが、《ロゴス》および《非ロゴス(=信仰のイエス)》を徹底的に研究してきたのである。どちらの《非ロゴス》もそれ自体ことばそのものではないので頭のなかの《それ》としか言いようがないのである。また、滝沢と八木のあの《対決》でも、そもそも《ことば》で絶対に表現できないような《それ》を《ことば》で何とか表現しようとしてあのようなウロボロスの対決になってしまったのである。

 このようにみてくると、《ロゴス空間(=キリスト教空間)》、《反ロゴス空間(=物質空間、=唯物論空間)》そして《非ロゴス空間(=仏教空間、こころ空間)》のそれぞれが実はそれ自身他の《空間》の存在を前提としており、また他の《空間》からの《入力》と他の《空間》への出力が開いていることがわかるであろう。ちょうど『ゲーデル・エッシャ・バッハ』のあのエッシャーの絵のように。あるいは、DNAのA-T、G-Cのように。

 さて、《ロゴス空間(=キリスト教空間)》にも《非ロゴス空間(=仏教空間)》にも積極的な側面と消極的な側面があったように、すなわち、《ロゴス空間》にはカオスからノモスへの《再活性化》の能力と、言語そのものに内在する《惰性化》という現象があったように、《非ロゴス空間》には《非言語》であるが故の《長所》と《短所》、つまり、西洋形而上学に囚われない自由な発想、善悪とか真偽とかいったオンオフの世界とは違った世界が可能となるのである。

 すなわち、芸術の世界、非論理の世界が可能になるのであるが、それと同時に、《惰性化》によってそのような《芸術》や《逆説》を生み出せないようなレベルに堕落してしまうことである。それと同じように、この《物質空間(=反ロゴス空間)》にも《長所》と《短所》がある。

 その最大の《長所》は人間に必要な物質的な《一切》を賄ってくれることにある。また、最大の《短所》は人間から《一切》の《人間性》を奪ってしまうその危険性をこの《空間》は常に内在させていることなのである。すなわち、合理性の《過剰》というこのことなのである。そもそも、人間存在は《機械》のような存在ではないはずなので、そこにはいくぶんかのあるいはたくさんの《非合理性》が含まれているが、現代のように《合理化》が極限まで浸透してしまうということは人間本来の《非合理性》の多くが失われてしまう可能性や危険性があるということなのである。

 文学の《貧困化》、芸術の《萎縮》、発想の《パターン化》、《陳腐化》、民話、神話の《崩壊》、人間精神の《機械化》、《ゾンビ化》、とくにコンピュータ、インターネット、人工知能などの本格出現による人間の《ゾンビ化》の問題など、本来人間が人間として所有していた豊かな《感性》が奪われ、《物神》つまり《フェティシュ》が跳梁跋扈するようなそのように非常に忌忌しき時代になる可能性がでてきたということなのである。《物質》すなわち《衣食住》から《レジャー》、《スポーツ》、《教養》、《娯楽》、《趣味》等にいたるすべてを追求することは構わないが、《ロゴス》あるいは《非ロゴス》的な要素が完全に欠落したときに典型的な例として《精神分裂病》が出現するが、これも過剰な合理性のひとつの帰結である。この論文は現代社会の問題の《病状告発》ではないのでこれ以上そのことには立ち入らないが詳しくはジャック・デリダやボードリヤール、クリステーバ、ラカン、クロソースキーなど現代思想を代表するひとびとの著作を参考にされたい。これらの人間たちも無論《無神論者》たちである。

 《ロゴス空間(=キリスト教空間)》が《入門空間》であり、《非ロゴス空間(=仏教空間)》がひとつの《到達点空間》であるということは以前指摘した。しかし、このことは人間存在の最終到達点が《非ロゴス空間》であることを意味するものではない。あくまでも説明の方便としてたとえで表現したまでである。ひとは《キリスト教的に》生きるのも、《仏教的に》生きるのも、《無神論者的に》生きるのも、その生き方の《根源性》には何等変りがない! ということを示したかっただけである。どちらが優れているとか、どちらが幸福であるとか、そのようなことは一切興味がない。ここで論じていることは、《キリスト教的な》存在構造が何を基盤にしているか、《仏教的な》それが何を基礎としているか、同様に、《無神論者的な》思想が何を基盤としているか、それらおのおのの《空間》の《積極的な》側面と《消極的な》側面を『ゲーデル・エッシャ・バッハ』風に展開しただけである。

 最後にこの空間で展開される《特異点》のいくつかを示し、論述を終えることにしよう。 この《物質空間(=唯物論空間)》は自然科学を代表とする現代思想が展開してその結果得られた《空間》であり、《世界》についてのひとつの《解釈》にその起源が依存している。すなわち、デカルトの《自然解釈》なのである。この是非についてもこの論文では言及しない。なぜならそのことだけについても、数万冊の書物が必要になるであろうからである。ただ、予想される未来については第二、第三の《フロイト》、《マルクス》、《ソシュール》、《フッサール》、《ハイデッガー》といった一連のひとびとが出現し、それぞれの《分野》で明確にできなかった問題点を少しづつ改善してゆくであろうことだけである。しかし、そのような天才たちが出現するためにもこの《物質空間》での《特異点》、すなわち、《精神分裂病》、《ビッグバン》、《生命の起源》、《言語の起源》、《存在の無明》、《認識のパラドクス》、《完璧な人工知能》、《完璧な人工精神(=人工意識)》、《人工生命》、《自由の悪魔》、《時間の淵源》、《生命の問題》、《死の問題》などを諸契機に《ロゴス空間》、《反ロゴス空間》そして《非ロゴス空間》との限りない《相互往復(=超限帰納法的無限回帰)》を展開させなければならないであろう。

………………………

 まことに、まことに、《神は幻想である》…
 しかし、天然の人間が限りなく《ゾンビ》に近づいているのは《幻想ではない!》

 いつか、天然の人間がすべて《ゾンビ》に堕落し、
《ゾンビ》に過ぎない 天然の《シリコン頭脳》が
限りなく豊かな《非ロゴス》に近づくような
そのような時代が来ないとは
誰も断言することはできない…



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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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関連記事:
『一即一切』
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参考文献:

『ヘラクレイトス』          ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』        滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》      滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』         久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』         滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』           山崎弁榮;

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』          田川建三;大和書房

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『言葉と物』            M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』           J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』           ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』           ニーチェ;岩波文庫
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『精神分裂病 上下』      ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』          ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』   ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』       ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』    フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』     木村敏;弘文堂
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『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホフスタッター;白楊社
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『フロイド選集 (全17巻)』    フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来」
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