哲学日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 『信のたわむれ』 《こころの世界》

<<   作成日時 : 2005/10/26 02:38   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

二 こころの世界(=仏教世界)

   《色即是空 空即是色》

 仏教の教えを支えている根本思想は《空》、または《無》の思想である。キリスト教思想を支えている《ロゴス》という概念が《合理性》から出発するのに対して、この思想は最初から合理性を《超越》したところから出発している。つまり、キリスト教空間の《イエス》を《窓口》すなわち《入口点》と捉えれば、仏教空間の《本覚》つまり《悟り》とは《到達点》のことである。何も悟りを開いた人間が到達点だというのではなく、説明の方便として、《イエス》=《入口点》とすれば、《悟り》=《到達点》という図式になるというただそれだけのことである。繰り返し読者に注意するが、ここで展開されている議論は《キリスト教》、《仏教》、《無神論》のそれぞれの思想の優位性について議論しているのではないのである。一般にキリスト教徒の仏教徒に対する《無知》、《拒絶》、《無関心》…といったもの、あるいは仏教徒のキリスト教徒に対する《侮蔑》、《違和感》、《嫌悪》…といったもの、これらはすべて相手についての《無知》とおのれの《立場》の無条件の優位性という《幻想》なのである。いかなる《悟り》に達した人間であっても、《物質》による生命の維持、《言語》による文化の恩恵によらなければ《存在》そのものが不可能なのである。したがって、本来の仏教徒の使命は《他空間》から受けた《恩恵》に対して、自ら《非言語の言語》、《非合理の合理》というものがどのようなものなのか、そういったことを《言語》すなわち《ロゴス》でもって示すことにより、《他空間(=キリスト教空間、および物質空間)》が陥っている《閉塞性》を打破してあげなければならないのだ。現代思想が《ロゴス》の現前を否定したことを受け、ますます混乱に陥っている《キリスト教(=ロゴス)空間》、あるいは《物質(=無神論)空間》に《カオス》を与え、それらの《空間》を活性化させてあげなければならないのである。現在では、九九パーセントの《キリスト教世界》が既に《惰性化》していると同時に、九九パーセントの《仏教世界》が《惰性化》していることは誰も否定することができない! その証拠に、オウム事件の対応、9・11の解釈および対応、そして今回の第二次イラク戦争の対応とその解釈などによって、自分たちが偽善者そのものである…ということを暗黙に証明しているからである。

 さて、久松、滝沢、八木および田川たちが展開した《対話》はその《射程》、《精度》、《洞察》を《宇宙》レベルへと拡張しなければならない。というのも、そこには必ず根源的なあのウロボロスすなわち《ゲーデル的な》困難が待ちうけているからなのである。しかし、あの《天才》と《分裂病者》との対話ではないが、おのれ自身との格闘という《地獄》を通過してはじめて新しい《地平》が開けてくるのである。

 いずれにしても、理想を言えば、これからの《仏教徒》は《数学》、《人工知能》、《言語学》、《分子生物学》、《心理学》、《精神医学》、《哲学》、《考古学》、《文化人類学》、《歴史学》、《経済学》などあらゆる分野での研究を踏まえ、そこでどのような《非言語的な》飛躍が可能となるかそのことを提示してゆけるようにならなければならない。そうであればこそ、《ロゴス空間》である《キリスト教空間》あるいは《物質空間》である《無神論空間》からの来客を招き入れ、それらの《空間》で窒息している人間に対して、《飛躍》(=発見、=悟り、=覚、=覚醒)を与えることができるのだ。つまり、座禅、あるいはその他の修行をとおして《非言語的》な《覚》を目指すとともに、上記の学問をその《極限》まで目指して、《ロゴス》すなわち《合理性》をその《極限》まで追求しなければならないのである。言い換えれば、《合理性》と《非合理性》を同時にその《極限》まで追求しなければならないのである。これは不可能なことなのであろうか? しかし、先人たちは常にそうしてきたことを忘れてはならない。《仏教空間》で練磨する者は、常にそのような先駆者たちの深い意思を受け継いで、さらに発展させなければならない。そうであればこそ、《狂気》におののく《精神分裂病者》の苦しみを知り、あるいは、《人類》を完璧なる《自動人形(=ゾンビ)》に陥れようとしている文明の巨大な流れに《対抗》し得る《悟り》を衆生にあたえることができるようになるのだ。困難な要求であるが、これが《仏教空間》に与えられた役割なのである。

 繰り返すが、この《空間》が他の《空間》と比べて優位的な《空間》であるということはないのである。ただ、この《空間》の原理が《ロゴス》という《言語》、あるいは《物質》という《人間の必要》に依拠していないだけに、《言語》の《惰性化》、あるいは《物神化》と呼ばれる物質文明の弊害からは逃れられるのだが、また同時にそうであるがゆえに、《他空間》からの《恩恵》、すなわち《言語》および《物質》というこれまた人間存在に必要不可欠な《根源》に依存しているのである。ここでもう一度注意しておかなければならないが、わたしの言いたいことは堕落した《仏教世界》を立て直すということとは根本的に異なることなのである。《キリスト教世界》についても同じことである。そもそもそのような《仏教》あるいは《キリスト教》など最初から問題にすらしていない。人間存在の基盤である《ロゴス》、《非ロゴス》、そして《必要》(=物質、=政治、=経済、=文明、=文化、…)の三者に対して《非ロゴス》を根源的に受け持つ《仏教空間》がその本来の役割を十分に果たすには何をしなければならないかということを『ゲーデル・エッシャ・バッハ』の図式に当てはめて展開しているということなのである。

 さて、第一章での展開を思い出して頂きたい。久松真一と滝沢克巳の対決のあの場面である。あれを日本と米国にあてはめてみよう。久松と滝沢の場合、《沈黙》が唯一の正しい答えであった。しかし、日米の経済摩擦の問題にあてはめたらどうなるであろう。《沈黙》はそのまま純粋な《無知》あるいは《無能》を意味するだけである。すると、日米関係は八木と滝沢とのウロボロスの関係に必然的にならざるを得ない。そして、事実そのような構造になっているのである。実際、お互いがお互いを必要としているのである。しかし、お互いの論理基盤が必然的に《ゲーデル問題》を提起しているではないか。また、日本における数々の疑獄すなわち《ロッキード問題》、《リクルート問題》、《住専問題》、《大蔵問題》、《薬害エイズ問題》、《厚生官僚問題》、《オウム問題》、《半身大震災》、《日米保険交渉》など数えればきりがないが、これらの問題の根本は《ロゴス(=原理、=原則、=ルール、=契約、=定義)の欠如以外なにものでもないであろう。日本あるいは日本人ひとりひとりが《ロゴス》を基本から学んでゆくしかないではないか。何もキリスト教に入信を勧めているのではない、しかし、《仏教空間》の優位性を説くならば、《ロゴス》を徹底的に学んだ上で《非ロゴス》を説くべきなのである。また、それでこそ《ロゴス空間》あるいは《物質空間》での《惰性化》あるいは《閉塞化》からの打開の道を開いてあげることができるのではないだろうか。

 構造的に眺めれば、この《空間》が最も困難な《空間》なのである。というのも、そもそもこの《空間》は《逆説空間》なのだから。なぜなら、その思想の根源が《非言語》すなわち《非論理》で成立しているからなのである。しかし、《逆説》の根源に近づいたのは、《ロゴス空間》や《無神論空間》の人間(=天才)たちではなかったか。《信仰》そのものの《逆性性》を説いたキルケゴール、人間の《無意識》の深層を説いたフロイト、《貨幣の謎》に迫ったマルクス、《言語の深淵》に到達してしまったソシュール、《認識》の逆説に迫ったフッサール、ウィットゲンシュタイン、《存在》そのものに挑戦したハイデッガー、《分裂病》という《特異点》を追求したアードラー、ブロイラー、サリバン、ミンコフスキー、ビンスワンガー、《文化》の《空間トポロジー》を展開したレ・ヴィストロース、《ロゴス》そのものに立ち向ったニーチェなど人類の諸々の《逆説》に迫っていったのは彼等ではなかったか? もちろん、西田幾太郎、鈴木大拙、夏目漱石、宮沢賢治といった日本の思想家たちも含めなければならないだろう。しかし、現実には明治維新以来この国は《逆説空間》であることの深遠な価値を完全に放棄しまったのである。そうだ、この国はまだ《ロゴス》の初級教育が終ってもいない段階なのだ。まして、《物質(=無神論)空間》にさえ至っていないのだ。この国にいるのは、《克服》の無神論者ではなく、ほんものの《無神論者》たちが地獄の苦しみの末勝ち取ったそのような《克服の無神論》の帰結を、ただただ貪るのみの純粋に《無知》な《無神論者》たちだけなのである。そして、それが誰なのかいちいち名前をだして言うようなことはしない。本人がそれだとすら分かっていないのだから。いずれにしても、この国の《無神論者》というのは、あのニーチェが軽蔑していたそのような人間であることはたしかなのである。

 さて、議論を戻し、人間存在の根底について《仏教空間》が引きうける側面は《非言語》すなわち《非論理(=パラドクス)》という側面である。この《空間》は《飛躍》、《発見》、《逆転》、《矛盾》、《逆説》、《分裂》、《自己言及》、《ウロボロス》、《ダブルバインド》、《デッドロック》、《不可能性》、《不条理》、《混乱》、《カオス》といった諸概念と密接に関係することがらを扱う《空間》なのである。《合理性》をその《極限》まで追求し、《非合理性》を発見する運動と、発見された《非合理性》を《合理性》すなわち《ロゴス》へと還元する運動である。私は《キリスト教信仰》の《合理性》を追及して、その《極限》に自分自身の《精神病》を発見した。これは《恵み》である。さらに、《精神分裂病者》を友人に得ることができたが、これも非常に大きな《恵み》であった。はっきり言って、百万人の普通の人間の友人より、たったひとりの《分裂病》の友の方が格段に凄いのである。さらに、その非常に特異な体験から、今ここで展開している人物たちの《思想》に出会うことができたのである。すなわち、久松真一、滝沢克巳、八木誠一、そして田川建三たちの思想である。これらの人間の思想は独自の思想である。名前を出してあげつらうことはしないが、彼等の思想はゴミのような有名人たちの思想とはまったく異なる思想である…ということは強調してもし過ぎることはないであろう。さらに、故丸山圭三郎や前田英樹によってソシュールの思想について学ぶことができたし、故山崎弁榮正人の著作とかその他多くの著作によって仏教の思想家たちの考えも学ぶことができた。また、無数の小説、童話、民話、ファンタジーに出会うことができたのである。すべて《キリスト教》に出会ったからこそこのことが可能になったのである。だからと言ってひとに《キリスト教》を《勧める》つもりはまったくない。また、それを《禁止》するつもりもない。わたしがここで言いたいのは自分は《ロゴス空間(=キリスト教)》、《非ロゴス空間(=仏教空間…入信はしなかった)》、そして《無神論空間(=フロイト、=ソシュール、=ニーチェ、=ハイデッガー)》のそれぞれを横断してきた…ということである。そこで思いついたのがこの三つの《空間》を『ゲーデル・エッシャ・バッハ』風にまとめてみるとどうなるかということだった。そこで、もう一度、《数学》を勉強し、《分子生物学》を勉強し、《禅》を学び、そして自分が現在展開している《人工知能》の分野にまた戻ってきたわけなのである。

さて、また議論をもどすが、《非論理》を発見した人間はこんどはそれを《言語》に《翻訳》してあげなければならない。それが《仏教空間》での本来の仕事である。それは《文学作品》としての《創作》でもいい、《音楽》でもいい、《詩》でもいい、《精神病理学の理論》でもいい、《童話》でもいい、《演劇》でも、《絵画》でも何でもいい。それこそ、《論文》でも、《随筆》でも何でもいいのである。そのようにして、その《発見》が《非論理(=パラドクス)》なんですよって人類に教えてあげることがニーチェの説いた《権力への意志》のほんとうの解釈なのである。オウム教はそれ自身で《文学》を生み出したか? 《哲学》を打ち立てたか? 新しい《価値》を生み出したか? しかし、《オウム教》を生み出したのは《われわれ全員なのである!》 《ロゴス(=論理)》を無視して留まるところを知らない《インチキ》を生み出しているのは誰だ? 《われわれ全員なのだ!》

 なぜだかわかるか。 人間が《ロゴス空間》にも《非ロゴス空間》にも学ぶことなく、単純な《物質現象》そのものだけに《還元》されてしまっているからなのである。ここでも注意していただこう。《物質空間(=無神論空間)》の悪口を言っているのではない。われわれが《物質空間》のなかの《物質》そのものに《還元》されているまさにそのことを言っているのである。《物質空間》は人間存在の《根源》のひとつである《物質(=政治、=経済、=文化、=文明、その他)》一切を担っている《根源的》な《空間》なのである。そろそろこの《空間》の説明に移らねばならない。


---------------------
『信のたわむれ』 目次一覧
---------------------
第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

---------------------
関連作品:
---------------------
■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

----------------------
参考文献:

『ヘラクレイトス』          ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』        滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》      滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』           山崎弁榮;

----------------------
『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』          田川建三;大和書房

----------------------
『言葉と物』          M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』           J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』           ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』           ニーチェ;岩波文庫

-----------------------

参考文献:
『精神分裂病 上下』     ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』         ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』   ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』      ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』     フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』     木村敏;弘文堂

『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホフスタッター;白楊社

『フロイド選集 (全17巻)』    フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来」



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
読者のみなさんへ:
この『信のたわむれ』という作品は、『知のたわむれ』、『覚のたわむれ』そして『現代のたわむれ』のシリーズに一端です。このシリーズ全体で、《宗教》、《哲学》、《自然科学》、《芸術》、そして《精神医学》の5つの分野を網羅しているそういう論文集です。
モツニ
2005/10/26 03:11
この『信のたわむれ』は平成3年ごろ既に完成しておりましたが、今回ブログ版でリリースしたため、若干の修正を加えました。それが、9・11およびイラク戦争に触れた箇所です。もちろん、作品としての影響はまったくありませんが、この作品そのものが生まれたときの時代背景には”オウム事件”と”阪神大震災”があったあの頃なのです。
モツニ
2005/10/26 03:17

コメントする help

ニックネーム
本 文
『信のたわむれ』 《こころの世界》 哲学日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる