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zoom RSS 『信のたわむれ』 《ことばの世界》

<<   作成日時 : 2005/10/25 06:06   >>

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第三章 ことば・こころ・もの

 第一章ではキリスト教、仏教、無神論のそれぞれの立場がどのような思想を根拠に自分たちの立場を主張してきたかを久松真一、滝沢克巳、八木誠一そして田川建三の四人に登場させ、それぞれを対話させてその思想を素描した。つづいて第二章ではひとりの架空の人物、架空の分裂病者を登場させその人物とそれぞれの思想の代表者を対話させ、それによってそれぞれの思想のもっとも深いところがどこにあるかを示そうとした。その思想の違いを際立たせるため、敢えて分裂病者というひとつの特異点すなわち極限的な存在を導入した。この分裂病者は架空の存在ではあるが、著者が実際に対話した実在の人物をそのモデルとしている。さて、極限的な現象つまり特異点として分裂病以外に考えられるのは、生命の起源、言語の謎、存在そのもの、認識そのもの、物質の極限、生と死、完璧な人工知能、完璧な史的唯物論、完璧な生物学などを想定して特異点としてもかまわない。私が分裂病を特異点に選んだのは、それが『生きられる時間の現象学』というわたしの得意分野であったからだが、まだこの分野での研究は揺籃期を脱していない。それはその分野の学問がそれ自身の現象学、存在論、認識論等を完成させることができない状態にあるからだ。同様なことが、人工知能、人工生命、人工精神、その他超最先端の分野でも言えることである。

 さて、第二章までを読んだ読者は私の立場がキリスト教から仏教、そして仏教から無神論へと発展進化しているような印象を受けるかもしれない。しかし、私が指摘したいのはそのような単純なことではないのである。ここでは、あらためて『ゲーデル・エッシャ・バッハ』で展開されているいくつかのテーマを再現させてみたいのである。つまり、ゲーデル的問題の本質とキリスト教、仏教、無神論をトリプレットあるいはゴドンとして捉えたいのである。数学、DNA、エッシャーの絵、バッハの組曲で展開されている自己言及性をより高度な次元で再解釈するとどうなるか…ということなのである。ソシュールの思想をヒントに故丸山圭三郎が到達した結論はノモスとカオスの円環運動であった。つまり、エッシャーのあの絵でいえば右手と左手のウロボロスである。しかし、ここで展開したいのは、仏教、キリスト教、無神論の三つ巴のウロボロスなのである。つまり、仏教、キリスト教、無神論のいずれの立場にも絶対的な優位性をとらせない立場なのである。

 さて、以上を踏まえてキリスト教、仏教、無神論のそれぞれの立場を概念的に抽象化してみることにする。つまり、それぞれの思想的立場を《ことば》(=言語、=ノモス、=秩序など)、《こころ》(=非言語、=逆説、=極限、=パラドクスなど)および《もの》(=物質、=政治、=経済、=歴史、=文明、=文化など)として抽象化するのである。ただ、ここで注意していただきたいのだが、なにもこの抽象化で《キリスト教》=《ことば》、《仏教》=《こころ》、《無神論》=《もの》というように単純に割り切っているのではないことに注意してほしいのである。ただ、説明の方便として《キリスト教空間》=《ロゴス空間》、《仏教空間》=《非ロゴス空間》、《無神論空間》=《物質空間》というように捉えてみただけなのである。キリスト教徒、仏教徒、無神論者たちが、それぞれ言語(=信仰)だけ、こころ(=悟り)だけ、物質だけで存在してゆけないのはあたりまえのことだからである。つまり、この抽象化はキリスト教思想が《言語》すなわち理性、合理性、精神、信仰といったロゴスをその思想の基盤に置いていることを示しているに過ぎない。同様に、仏教の思想が《悟り》、つまり、覚醒、非言語、超越、逆説といった非ロゴスをその思想の基盤にしているのである。最後に、無神論の思想が《物質》を基盤にその思想を展開しているのであるが、ここでいう《物質》とは衣食住だけでなくそれを可能にしているすべてのことがらを意味しているのである。以上がこれから展開する、《ことば》(=キリスト教空間)、《こころ》(=仏教空間)、《もの》(=無神論空間)による三つ巴のウロボロス、すなわち、あの『ゲーデル・エッシャ・バッハ』で展開されている、プリントギャラリーの世界そのものなのである。

一 《ことば》の世界(=キリスト教世界)

 「はじめに《ことば》ありき、《ことば》は神であった…」

 旧約および新約のすべてはこのひとつの言明、すなわち《ロゴス》にその思想の原理を置いている。そして前世紀ソシュールが出現するまではその《ロゴス》の現前をほとんど誰も根源的に疑ってみなかった。すべての西洋思想は《経験論》、《観念論》、あるいは《唯心論》、《唯物論》のいずれの立場をとるにせよ、この原理からすべてを展開してきたのである。しかし、その是非を問うことがここで問題なのではない。現代文明はすでにロゴスの現前を否定しているからである。要するに、人間存在の根源として《ロゴス》(=信仰、=合理性、=言語、…)はそれを根底から支えることができないということが判明されたのである。

 しかし、読者は厳重に注意していただきたい。この《ロゴスの現前の否定》という結果のみを《単純》に受け取り、それに狂喜してしまうことをである。キリスト教を否定するのも構わない。理性を否定することも構わない。現代思想の最先端を追求することも構わない。しかし、人現存在の根源そのものとしての《ロゴス》、ヘラクレイトスが言うところの《人間のロゴス》、《有》そのものとしての《ロゴス》そのものは否定したくても否定できないのである! なぜなら、読者は気づいてきたか否かわからないが、第一章からはじまって今この瞬間に到るまでわたしは《言語》によって、《言語》によってのみ、自分のディスクールを展開してきたのだから。もし《ロゴス》を否定するなら、《非言語》によってこれまで紡いできた思想と同等なものを展開しなければならないが、そのようなことは《言語》をもって以外考えられないことではないか。つまり、人間存在とは《言語》に完全に依拠しつつ《言語》に完全に毒されている…というあのウロボロス、すなわち《言語》と《人間》のウロボロスになっているのである。結論を言えば、キリスト教を根底から否定しても全く構わないが、キリスト教によって代表される《ロゴス》(=言語、=ノモス、=秩序、=合理性…)そのものを否定することは不可能だ…というこのことなのである。

 どんな偉大な仏教の天才でも人類にとって価値ある発見は最低限度の《ロゴス》によってしか言明できなかったことも事実である。《東洋》が《西洋》に目立った貢献ができないように映るのは《西洋》がロゴスの表層の部分だけに目を奪われて、《東洋》の非ロゴス的な《ロゴス》を発見できなかったからでもあり、また、《東洋》が《西洋》に十分通用するだけの《ロゴス性》をもった《非ロゴス》を西洋に提示することができなかったからなのである。これは《西洋》の《東洋》に対する《学びの欠落》という怠慢であり、《東洋》の《西洋》に対する《説明の不十分》という怠慢なのである。《東洋》がなぜ《西洋》に十分働きかけられなかったかは《西洋》からの学びが十分でなかったからなのだが、それは、《非ロゴス》的なものの洞察を《ロゴス化》へ徹底化するところにまでいたっていないからなのである。言い換えれば、《ロゴス》の世界での徹底化が実現したとき(ゲーデルの定理のように)、そのときはじめて《非ロゴス》がはじけるのだ。また、《西洋》がなぜ《東洋》に学ぶことができないかというと、《西洋》の《ロゴス》が《東洋》の《非ロゴス》より価値が高い…という完全な《無知》からくるのだ。つまり、ことの真相は《西洋》(=ロゴス)あっての《東洋》(=非ロゴス)であり、《東洋》(=覚醒、=悟り)あっての西洋(=信仰)なのだ。滝沢と八木のウロボロスはこのようにしてエッシャの絵のような構造で、すなわちメービウスの輪あるいはクラインの壺のようなイメージではじめて完成されるのである。そこには絶対性はどこにもない。あるのは互いに絡み合ったDNAそのものの螺旋構造のような相互言及的な複雑な立体構造があるだけである。

 人間存在の根底についての《ロゴス空間》、すなわち《キリスト教空間》の役割は、《精神》つまり《自己》というものを確立するための《教育空間》なのである。そこで人間がはじめて《精神》として定立される《空間》なのである。つまり揺り篭のことなのである。この《教育空間》ではじめて《言語》を介在した諸能力、すなわち、哲学、自然科学、文学などを代表するもろもろの《表象空間》が展開可能になるのである。言い換えれば、この空間は《仏教空間》あるいは《物質空間》すなわち《無神論空間》で発生した《カオス》を再び《ノモス》に再現するための《復活空間》でもあるのだ。あの聖書に書かれている《復活》という意味は宇宙的な意味での射程で捉えなければならないのである。ただ、古代の人間はあのような表現しかできなかったのであるから、そこを十分把握しなければならないのである。つまり、《復活》という概念はヘラクレイトスあるいは古代インド、古代中国で展開されているような、そのような射程で理解しなければならないのである。 
 この《空間》は《仏教空間》から、あるいは《無神論空間》からの来客を招き入れる。つまり、《仏教空間》でおおいなる非言語的な《発見》があった場合、この空間で学んで《言語的》な表現に展開できるようにすることである。ここでいう《言語》とは《ロゴス》、《秩序》、《理性》、《合理性》、《論理》、《理論》、《ノモス》…といったものである。《無神論空間》からの来客としては《物質空間》で諸々の特異点に到達できた人間があげられる。ここで《特異点》というのは《精神分裂病》、《生命の起源》、《存在そのもの》、《完璧な人工知能》、《宇宙の極限》、《物質の極限》といったものである。つまり、この《ロゴス空間》はそこで一連の基本ロゴスをマスターした人間が《物質空間》(=無神論空間)、あるいは《仏教空間》(=非言語空間)へ移行するための《教育空間》であり、また、偉大なる《非言語的》な発見をした人間がこの空間で再び《新たなロゴス》、すなわち《=新ノモス》、《=新秩序》、《=新言語》、《=新理論》、《=新合理性》といったものを回復する《空間》なのである。

 しかし、《ロゴス》は必然的に惰性化するため、この新たな《ロゴス》は再び通常の《ノモス》、《秩序》、《言語》、《理論》、《合理性》などへ移行してしまう。同様に、《物質空間》すなわち《無神論空間》で合理性追求の極限に到達し、《特異点》すなわち《カオス》に陥った人間に対し、《ノモス》すなわち秩序を回復させてあげる役割でもある。つまり、この《空間》の積極的な側面は《カオス》から《ノモス》を《分節》するその働きそのものであり、言い換えれば、《言わけ》機能そのものである。反対にこの《空間》の消極的な側面は必然的に《惰性化》するということである。

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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:

『ヘラクレイトス』        ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館
『人生の帰趣』          山崎弁榮;

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』        田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』        田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』         田川建三;大和書房

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『言葉と物』           M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』          J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』          ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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参考文献:
『精神分裂病 上下』     ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病』         ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』   ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』      ビンスワンガー;みすず書房
『内的時間の現象学』     フッサール;みすず書房
『自己・あいだ・時間』     木村敏;弘文堂

『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホフスタッター;白楊社

『フロイド選集 (全17巻)』    フロイト;日本教文社;
特に 「自我論」、「文化論」、「芸術論」、「幻想の未来」




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