哲学日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 『信のたわむれ』 《幻想としての宗教》 後半

<<   作成日時 : 2005/10/22 09:30   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 4

 
 時間が《永遠》なものであると直感した子供の私にとって、つぎに興味があったのは《自分がどこからきてどこへゆくのか…》という毎度おなじみの問題、つまり《死》ではなく、《死後》の問題であった。また、自分の姉が精神薄弱者であったため6才以降ずうっと《精神病》とは何か…ということを問いつづけたきた。そのような理由で、私は子供のときからずうっと哲学をしてきた人間なのである。

 それで、小学校5年生のとき偶然ではあるがパスカルの『パンセ』を自分で買ってきて読んだのである。キリスト教徒にはならなかっったが自分にとって西洋哲学のやさしい入門書になったのである。その後、中学、高校を通してフロイト全集などをよく読んだ。理解できない部分もかなりあったが、一応フロイト全集の全てに目を通し、大筋何が重要なところか把握することはできた。また、同じ頃、フロムやフランクルの著作にも馴染んだ。なぜなら彼等はみなフロイトの弟子たちだったからである。それらの著作にしても一応全部目を通した。ところが、同じ頃、ニーチェの『ツアラトウストラ』、プラトンの『パイドン』、『饗宴』、『クリトン』なども読んでみたが、まったく理解することができなかった。

 やがて高校を卒業するとともに、大学受験に失敗し、その後、同じ年の9月、アメリカの大学に留学したのである。医学部を目指したが止めて数学を専攻した。一応、奨学金を受けられたのでなんとか卒業することができた。いずれにしても、私がここで言いたいことは、アメリカの大学の留学先でキリスト教に入信したことなのである。なぜ入信したかと言へば《信じた》からである。聖書の《ことば》はそのまま神の言葉であるという《聖書に書かれている》そのことばによって私は《救われた…》と信じたのである。

 そのとき私は19才であった。それ以来、私は純粋なクリスチャンとして実に情熱的に信仰生活に打ち込んだのである。しかし、不思議な運命の計らいで、33才のとき最初に強烈なうつ病に出会い、つづいて41才のとき2度目のさらに強烈なうつ病に出会ったのである。ちょうどそのような時期、つまり30才を越えたころから、哲学、宗教、文学、歴史、考古学、文化人類学、言語学、数学、演劇、仏教、その他膨大な読書遍歴がはじまったのである。それまでのキリスト教のみの精神生活を自分の中世に例えれば、わたしにとってうつ病の到来は西洋でいえばルネッサンス、フランス革命、あるいは共産主義革命のような体験、日本でいえば明治維新のような激動であった。

 更に、最初のうつ病が回復してから数年たったあるとき、自分が所属していた教会に神を信じているひとりの《精神分裂病者》と出会うことになったのである。そして、その《精神分裂病者》との出会い(=友情)を通して結果的にキリスト教社会から離れるようになったのである。ただ、そのときはまだ自分が完全な《無神論者》になったわけではないが、教会を離れたあと、ソシュール、フッサール、ハイデッガー、ビンスワンガー、ミンコフスキー、フーコー、そしてニーチェなどが正確に読めるようになると、彼等が何を言おうとしているかだんだん深く理解することができるようになったのである。そして、とうとう《無神論者》としても人生を歩む決意をするようになったのである。

 そして、いま、もう一度、久松真一の思想、滝沢克巳の思想、八木誠一の思想、そして田川建三の思想を振り返ってみたのである。というのは、彼等の思想は『ゲーデル・エッシャ・バッハ』で指摘されたあの構造、すなわち、トリプレット、ゴドン、三つ巴のウロボロスを構成するからなのである。

 さて、本題に戻って、田川の主張《神は幻想である》という公案を滝沢はどのように受けとめるのだろうか? その公案に滝沢が沈黙したとして、その場合、《悟りの沈黙》と《無知の沈黙》に違いがあるとすれば、滝沢の《沈黙》はどちらなのか? 悟りの沈黙だとすると、その場合の《悟り》とはどのような《意味》での悟りなのであろうか? また、《無知の沈黙》だとすると、その場合の《無知》はどのような《意味》での無知なのであろうか?

  いずれにしても、滝沢と田川の対決は決着がつけられないのである! なぜなら、そのどちらの立場に立つにせよ、相手の立場を《否定》すればそれは結局自分自身の立場を否定することを《暗黙》に意味しているからなのである。《喰う》ことを否定すれば自分の存在の根拠を否定することになるし、ロゴスすなわち理(ことわり)、自然科学を否定することは、結果的に《喰う》ことを否定することを意味するからなのである。ロゴスとは自然科学を生み出す基盤そのものだからである。

 しかし、ロゴスは必然的に《惰性化》するし、それを《活性化》するには《非ロゴス》すなわち《カオス》がどうしても必要なのである! ニーチェを否定することは《カオス》を否定することを《意味》し、《カオス》を否定して残るのは……今、まさに展開されているこの現実、9・11やイラク戦争を含むこの極めて錯綜の度を増しつつあるこの現実ではないだろうか? 誰が《真実》を伝えているのだろうか? 《ロゴス》を伝える伝統的なキリスト教なのか? 《カオス》を伝えるニーチェなのか? それとも、《ロゴス》と《カオス》は同じである!と唱えるあの哲人、あの闇いひと、あの変人、ヘラクレイトスなのか? ………

 現代思想の主流が《無神論》であるとひとはいうが、絶望のどん底に落ちて、なお力強く《神は幻想である》という公案を高く揚げ、自分の思想に忠実に従うことができる程のほんものの《無神論者》がどれだけいるのか? 現実はどうか? 久松、八木、滝沢たちのようなほんものの《信仰者》など殆どいない。また、田川のようなほんものの《無神論者》だって殆どいない! いるのは、状況によって《信仰者》になったり、《擬似無神論者》になったりする、純粋に生物学的な起源をもつ自動人間、ゾンビ、ジンボに近い存在であるそのような人間ばかりではないか! ここでも注意してほしい、ロゴスの現前が否定された現代、《ほんもの》ということば自体それほど単純ではないのだ!

《神は幻想である》というこの公案はそれ自体、より高いレベルでの《即非》の可能性を示していないだろうか? つまり、色即是空 空即是色 という表現をまねれば、信仰のより高いレベルでは

   基即是仏 仏即是基 基即非仏 仏即非基
   無即是仏 仏即是無 無即非仏 仏即非無
   無即是基 基即是無 無即非基 基即非無

というようなことが考えられないであろうか? なぜなら、《信仰》こそひとつの《狂気》以外のなにものでもないのだから。そして、あらゆる、芸術、学問、哲学、文明、文化はこの《狂気》から生まれているのではないだろうか? まことにまことに、《無神論》と《信仰》とはそれ自体ひとつの強力な《狂気》そのものではないだろうか?

---------------------
『信のたわむれ』 目次一覧
---------------------
第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき


---------------------
関連作品:
---------------------
■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

----------------------
参考文献:

『ヘラクレイトス』          ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』        滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』   八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

----------------------
『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』          田川建三;大和書房

----------------------
『言葉と物』            M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホススタッター
『沈黙するソシュール』      前田英樹; 
『偶然と必然』           J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』           ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』           ニーチェ;岩波文庫

-----------------------
『精神分裂病 上下』     ミンコフスキー;みすず書房
『生きられる時間 上下』  ミンコフスキー;みすず書房
『精神のコスモロジー』   ミンコフスキー;みすず書房
『現象学的人間学』     ビンスワンガー;みすず書房
『精神分裂病 上下』    ビンスワンガー;みすず書房
 
『フロイト全集』        日本教文社
『フランクル著作集』     みすず書房

-------------------------

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
今晩は。ポトス哲学堂ブログのPothosです。少し遅れてしまいましたが、モツニさんのブログを拝読させていただきました。

本格的な哲学のブログのようで、全ては読んでいませんが、文面から本物の哲学者の文章であると感じ取りました。あと、4種類のブログを掛け持ちしているのには驚きました。

私はモツニさんを私と同じくらいの世代の方なのかな、と思い込んでいましたが、年齢を見ると私の父親と同じ年代の方なのですね。

まあ、インターネットの世界では年齢はあまり気にしない方が良いとも思いますが。私と同世代の若者でも私よりも精神年齢の高い人はいますし。

とにかく、私も貴方も同じ哲学者同士のようなので(私の場合は仮初の哲学者かもしれませんが)、これからもよろしくお願いします。

教養についてはモツニさんの方が私よりも遙かに広く深いものを持っていると思うので、貴方のブログから色々と学ばせてもらおうと思っています。
Pothos
2005/10/23 00:22
Pothosさん コメント ありがとう。
昔から、哲学をやるひとはすべて子供のときからやっていることは確かめられます。また、宗教と哲学と文学と精神医学が密接に関係していることも周知の事実です。幸い、日本ではキリスト教の変な影響がありませんので、日本独自の哲学が生まれる土壌が期待できそうですし、実際、こと哲学に関しては、日本、ドイツ、フランス、インドなどが世界の思想界のレベルをリードしているようです。
問題はこれから日本は国として相当緊しい試練に出会うこと必至なのです。というのは日米関係は完全に決裂へ向って既に動いているからなのです。
モツニ
2005/10/23 02:58
今、世界を席捲しているのは、ユダヤ・キリスト教的グローバリズムと呼ばれる
一種の"資本主義”ですが、このシステムはインチキ・キリスト教をベースにした途轍もない悪魔的なシステムです。つまり、ニーチェやソシュール、キルケゴール、ハイデッガーたちが指摘するまでもなく、”ほほえみ”のニヒリズムそのものなのです。
モツニ
2005/10/23 03:01
この悪魔的なシステムを打破するには、文字通りソシュールのレベルのパロール、すなわちことばの新しい”裁ち直し”が必要なのですが、ソシュールをソシュールのレベルで理解できるのは、前田英樹さんとか故丸山競三郎先生とか、田川建三先生ぐらいしかいないのが実情です。いずれにしても、キリスト教的偽善そのものをベースに、仏教偽善と絶妙にミックスされた日本の精神風土そのものを根底から変革してゆかない限り、日本人の精神文化の健やかな成長はあまり望めないことは推して知るべしです。どうか、みなさん、天才たちの声をもっともっと訊くようにしてくださーーーい。

以上、頭のおかしいモツニでした。
モツニ
2005/10/23 03:04

コメントする help

ニックネーム
本 文
『信のたわむれ』 《幻想としての宗教》 後半 哲学日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる