哲学日記

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zoom RSS 『信のたわむれ』 《幻想としての宗教》 前半

<<   作成日時 : 2005/10/22 07:35   >>

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五 幻想としての宗教

 田川建三は言う、「宗教は幻想である。神は存在しない。一切の宗教は虚妄である……」と。

 私は滝沢克巳がどれだけニーチェを理解していたか知らない。しかし、八木誠一がニーチェを殆ど理解していないことだけは断言できる。なぜなら、もし彼がニーチェをほんとうに理解していたならばとても恥ずかしくて書けないような本を書いているからだ。しかし、わたしは八木誠一を責めるつもりはない。仏教とキリスト教にあれだけの時間とエネルギーを投入した人間にそれらに加えニーチェまでも本格的に取り組もうとさせたら間違いなく精神分裂になってしまうだろう。

 ニーチェを読んで理解できるようになるには、プラトン、ソクラテス以前の哲学者からはじまって、西洋の殆ど全ての哲学者、思想家、芸術家の思想の本質をかなり正確に把握しなければ決してできないばかりか、実際にキリスト教世界の中に所属するしないは別として、すなわち信仰告白をするしないは別にして、少なくとも実際にキリスト教の世界のなかに自分自身を置いてみて、その本質が何なのか自分で体験しなければ決して分かるようなものではない。

 ニーチェという存在が面白いのは、実際にキリスト教信仰を告白しキリスト教世界に馴染んだことがない人間にはニーチェのほんとうのすばらしさがわからないということがひとつあげられる。誰でもニーチェの言葉を読んでそれなりに理解できるし、それなりに感動することができるし、それなりに深い洞察を得ることができる。それは、彼の思想が十分深いからである。

 しかし、そのほんとうの素晴らしさが解る人間は、キリスト教そのものがもつ意識的かつ無意識的な驚くべき豊富な《偽善》、《律法主義》、《嫉妬》、《嫉み》、《怨み》、《復讐心》、《無知》などを実際に自分の躰で受けとめた人間だけである。繰り返すが、ニーチェのほんとうの素晴らしさを味わうには逆説的だが、一度キリスト教に入信しなければならない。 しかし、現代に於いて真面目にキリスト教に入信するような契機は殆ど限られている。つまり、殆ど可能性がないのである。

 ところで、ひとが真面目な意味で、つまりニーチェの理解の目的ではなしに、純粋な信仰を通してキリスト教に入信してしまうと、滝沢克巳や八木誠一などの場合は例外として、仏教はおろか全ての宗教を否定するよう必然的に条件つけられてしまうのである。それは牧師が悪いのでも、神学が悪いのでも、聖書が悪いのでも、その解釈が悪いのでも、とにかくそのようないずれでもないのだが、要するに、キリスト教という宗教そのもののなかに他の宗教を全面的に否定するようなそのような要素が本質的に内在しているのである。

 だから、キリスト教世界にあって、滝沢克巳や八木誠一のような存在は完全に例外なのである。つまり、現実的にはキリスト教徒と呼ばれる人間がニーチェを読むということそのものが殆ど有り得ないことを意味しているのである。まして、ニーチェを読んでニーチェの思想を十分深く理解できるようになるには、一般のクリスチャンには夢のまた夢なのである。

 なぜなら、一般にクリスチャンは自分の信仰が《悪魔》によって誘惑され信仰から離れることを極端に恐れるからなのである。つまり、ほとんどのクリスチャンにとってニーチェは《悪魔》みたいに映ってしまうのである。信仰を持ったことのない人間には彼等のこのような恐れがどれほど凄いものであるかまったく理解できないのである。とにかく、そのような理由で、ニーチェという人間の著作はキリスト教社会では実質的にはタブーとなっているのである。

 つまり、ニーチェという人間のほんとうの素晴らしさは殆どの人間に隠されているのである。福音書というものが全世界に強制的に配布されたにもかかわらずその本質が決して正しく理解されたことのないのとはまた別の意味で、ニーチェという人間はひっそりとひとの目に隠されているのである。勿論、書店にゆけば簡単にニーチェの本に出会うし、古本屋にだってあちこちニーチェの本が曝されているが、それでもニーチェという人間はひっそり隠れて殆ど誰にも見つけられていないのである。

 キリスト教すらにも入信できない人間がニーチェなどに到達できるわけがない…と誰かが叫ぶがごとく、ニーチェのこころはひとびとから隠されているのである。キリスト教の深い洞察者であり、かつ、キリスト教のドグマに毒されていない人間のみが、彼の思想のほんとうの深いところを洞察できるのである。

 さて、議論を戻し、八木誠一はニーチェを深く理解していない。滝沢克巳がどれだけニーチェを深く理解していたのか、もう故人となってしまったから確認することはできないが、西田哲学、漱石、芥川、ドストエフスキーなどの読書と併行してニーチェをきっと読んでいたことは間違いないが、どれだけ深く読み込んでいたのか…ということはわからない。

 いずれにしても、《宗教は幻想である。神は死んだ》という無神論者からのこの《公案》に対して、滝沢は自分の答えを言表しなければならない。しかし、第一節から第四節までの滝沢克巳のすべての思想の流れを考察すれば当然予想がつくように、《宗教は幻想である。神は死んだ》という言明そのものを却けるであろう。それは、八木誠一の《不可分・不可同》でさえ十分徹底していない…というそれだけの理由で却けるのだから。すなわち、滝沢は八木や久松の《公案》を退けたその同じ理由で田川の《宗教は幻想である》という《考案》を却ける。

 ここで注意深く観察して頂きたいのだが、滝沢の田川建三に対する態度は、久松真一や八木誠一に対する態度とは少々違うということなのである。イスラム教徒がユダヤ教徒に、あるいはユダヤ教徒がイスラム教徒に接するように接するのではないということである。頭から相手の存在そのものを全部否定しているのではないということなのである。滝沢は田川の主張で正しい部分は正しいと認め自分の方が間違っていればそれを率直に認めているのである。友人としてではないがある意味ではそれ以上に敬っているのである。

 この二人の対決(=対話)は、沈黙による無言の《即非》による合致でもなければ、ウロボロスのような《自己練磨》の道場でもない。そこにあるのは、生身の人間についてのその理解という《平面》では二人とも相当深い共通認識が存在しているのである。たぶん、両者ともマルクスの思想を立場は異なりながら深いレベルで洞察しているからであろうし、実際、学園闘争の問題で二人とも同じ様な立場に立たされた経験があるからであろう。

 だから、八木が滝沢に立ち向ってゆくのとは違って、田川は常に《じゃあ、おまえはどのような方法で喰っているのか……》という基本的な問いを投げかけて、相手がどの立場でものを喋っているのか確かめた上で、そこから議論を開始するのである。しかも、滝沢の徹底さをもって《神は幻想である…》という根源からすべてを洞察するのである。つまり、田川と滝沢は二人とも極めて考え方が近いのである。言い換えれば、田川と滝沢のひとつの大きな相違点は、それぞれの根源が、《不可分・不可同・不可逆》の立場と、《史的唯物論》の立場の違いだけなのである。

 さて、田川はニーチェの思想をそれなりに理解している人間だと思う。なぜ私がそのように断言するかというと、自分で言うのもおこがましいが、私自身相当深くニーチェを理解している人間であると自負しているからなのである。

 私は生まれてからまもなく、たぶん三才か四才のころ、言語を使うことなく時間の概念の非常に《面白いこと》、というより時間というものの《不思議な現象》を誰の助けをかりることなく、自分だけで哲学していた。哲学のまねごとではなく、哲学そのものと取り組んで来た。そのとき私が時間についてどのように考えていたかというと、「《いま》自分は《いま》そのものについて考えている、ところがその《いま》が次ぎの瞬間、《不連続の連続》、《連続性そのものの非連続性》によって、あたらしい《いま》に《滑らかに》移行している…。するとまえの《いま》はあたらしい《いま》にバトンタッチすると同時に《永遠の過去》に刻まれてゆく。しかし、《過去》に刻まれたかつての《いま》は自由に《いま》と呼ばれるレジスタに組入れることができる…」つまり、《記憶》という機能を通して過去への回想という現象が可能である…とうようなことを言語なしに思考していた。

 それは不思議な夜だった。三才か四才かそれは定かでないが、その夜、一睡もしないで天上の羽目板の木目を薄暗がりのなかで眺めていたのである。つねに《いま》だけを考えて。《いま》、《いま》、《いま》、……、《いま》、《いま》という風に。また、そのとき、直前の未来について新しい《いま》が、丁度、泉の底からきれいな水がどっくんどっくん絶え間なく湧き出してくるように、つねにあたらしい《いま》が規則正しく生成されてゆく…その現象をも不思議に感じていた。時間というものは《いま》という瞬間だけが存在し、その《いま》がつぎつぎに《過去》の《いま》に変っていく。それだけでなく《いまでないもの》がつぎつぎに《いま》に変ってゆくその現象そのものが不思議でならなかった。

 そのときの私にとって《いま》がつぎつぎに消え去ってゆくことは恐怖ではなかった。なぜなら新しい《いま》がつぎつぎ生成されていることも併せて観察していたからである。つまり子供の私は、あたらしい時間がつぎつぎに生成されて過去の時間にとって変わるこの《滑らか》な現象を不思議だが好ましい現象として受け入れていたのである。さしずめ《生きられる時間》の現象学といったところであろう。

 子供のときのこの言語以前の時間把握はずっと後に、実際に自分がコンピュータ・エンジニアになってから、CPUのクロック・サイクルとフェッチ・サイクルとの関係、《命令》の《取出し》とその《命令》のカレント・レジスタへの格納、それら一連の作業を滞りなく実現するための《PSW》、《CCW》、スタック処理、《プッシュイン・ポップアウト》機構、言い換えれば《割込み》という概念を実際に体験することによって、子供のとき自分が言語なしで時間の概念について考えていたこととほとんどおなじような発想に基いていることを確認したが、別に驚きでもなんでもなかった。

 そして、やがてキルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデッガー、ヘラクレイトスなどを読むようになってから、永遠の時間についての考え方に興味を持つようになった。古代インドの時間把握、ヘラクレイトスの時間把握、ニーチェの時間把握、多くの分裂病者の時間把握、これらは私の時間把握に非常に近いのである。つまり、大きな円環構造をしているのである。


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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連作品:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:
『ヘラクレイトス』         ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』        滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』   八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』       田川建三;三一書房
『宗教とは何か』          田川建三;大和書房

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『言葉と物』            M・フーコー;新潮社 
『ゲーデル・エッシャ・バッハ』 ダグラス・ホフスタッター;白楊社
『ソシュールの思想』      丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』      丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』     前田英樹; 
『偶然と必然』           J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』           ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』          ニーチェ;岩波文庫

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