哲学日記

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zoom RSS 『信のたわむれ』 《信じること と 喰うこと》 後半

<<   作成日時 : 2005/10/21 22:52   >>

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 さて、有神論と無神論との本格的な議論に入るまえにもう一度今までの議論で確認されたいくつかの注意点について振り返ってみたいと思う。まず、《悟りの沈黙》と《無知の沈黙》が根本的に異なる…という点が指摘されたが、ここでは、さらにその《注》そのものに対する《注》が必要であるということである。

 まず、第一節から第三節までの議論の空間内ではそれが仏教的、禅的、あるいは哲学(西田)的に使われようと、キリスト教的に使われようと、いずれにしてもロゴス、真理、実体などと呼ばれてきたあの概念、すなわち《神》と呼ばれてきた概念のことを意味するのであるが、《悟り》ということばはその概念に対して絶対的な肯定の場合と、絶対的な否定との両方を意味しているということである。

 つまり、《悟り》ということばは《神》という概念を根源的に肯定するか(有神論的)あるいは根源的に否定するか(無神論的)その両方を暗に含んでいるということである。ただ、これまでの議論では《絶対的に神を肯定する…》という意味で使われてきた点に注意してほしい。同様にして、《無知》という言葉も素朴な日常的な意味で用いられる場合、あるいは、知識、すなわち《分別知》のなかだけで理解されているレベルの《知》を指して軽蔑的に使用される場合、さらに天才あるいは狂人が知の極限を極め、そこに到達したその《最高レベルの無知》を指している場合があることも念頭に入れてほしいということである。

 すなわち、《悟り》、《無知》という言葉ひとつをとってみても、非常に単純でないことを頭に入れる必要があるということである。また、八木が滝沢に対し《伝達のことば》、《文学のことば》、《宗教のことば》があり、さらに《宗教のことば》のなかに、《理(ことわり)》すなわち原理的なことがらを言い表すことばがあり、《事(こと)》すなわち《分別知》を超えた直接的なことがらを言い表すことばがあり、それらを厳密に分けて扱って欲しい《旨》を訴えているが、たとえそれらを厳密に細分化していったとしても、《こと》と《ことそのもの》は永久に近づき得ないことを知る必要があるということである。

 つまり、ことばひとつとってみても、素朴に解釈してはいけないのだが、ことばを厳密に細分してもあまり厳密にならないということが逆説的に成立していることも確かなのである。いずれにしても、これ以降の議論の展開では、読者はソシュールの言語理論の基本的なことがらを大筋踏まえていることを前提としている。つまり、ロゴスの現前は完全にその前提が断たれているところから出発しているということである。

 すなわち、丸山圭三郎の代表的な著作のほとんどすべて、それに前田英樹の『沈黙するソシュール』、そして、ミシェル・フーコーの『言葉と物』あるいはそれに匹敵する同等なレベルの一連の著作を読解していること、それらのことが前提になっている。同様に、田川建三、八木誠一、滝沢克巳の代表的な著作を読んでそれらに何が書かれているかほぼ正確に理解していることが前提になっている。そして最後に、これは前提条件とはしないが、ニーチェ、フロイト、マルクスのいずれかひとり、あるいは彼等全部のなかで、どれかひとつその代表作を完全に理解してからこの議論に加わってもらいたいのである。もちろん、これはお願であり強制ではない。

 なぜこのようなお願から始めるかというと、田川と滝沢の両者に対し読者もできるだけ中立的な立場に立って欲しいからなのである。田川も滝沢もマルクスを読んでそれぞれ正確な理解を示している。それだからこそ、本格的な議論ができるのである。同様に、両者とも聖書をそれぞれの立場で深く読み込んでいる。そう、年期が入っているのである。両者とも重要な哲学者たちの重要な著作を年期を入れて読み込んでいる。

 そして、両者とも政治、経済、歴史、社会、その他実に広範にわたる人間についての《問題》に対して、読書だけでなく、現実に深く拘わってきたのである。田川も滝沢もあの《全共闘》の混乱を文字通り血を流すような体験をしながら戦ってきたのである。

 私はこの論文で田川と滝沢のいずれをも持ち上げることをしないし、そして読者にもそれを強要するのである。もし、田川の立場を擁護するためだけにこの論文を読むのであれば、それは田川本人を最も侮辱することになろうし、同様に滝沢の立場を擁護する目的だけでこれを読めば、逆説的に故滝沢の生前の努力に泥を塗ることになるだろう。

 結果的に田川あるいは滝沢のいずれかの立場に立つのは自由であるが、この田川と滝沢の対決が最終的にどのような決着をつけるにせよ、田川も滝沢も最大の誠意をつくして自分自身と戦ったのである。

 そうだ、もともと議論というものはそれが生み出す《ウロボロス構造》の頂点でおのおの自分が自分自身と対決してゆく、そういうものなのである。実は、この論文は《私》と《読者》との対決なのだが、私は読者がどのような人間か知らない。だから、私は読者を仏教徒、禅者、キリスト教徒、哲学者、言語学者、思想家、小説家、心理学者、精神科医、詩人、人工知能学者、神経科学者、認知科学者、精神分析家、カウンセラー、医師、弁護士、裁判官、教師、教育者など思想の対決、すなわち《対話》を必要とするすべての人間を想定している。

 そうだからこそ、上にあげた一連の著作の読解を強要するのである。何も差別するためではない。われわれ現代人はあまりにも軽軽しく自分たちのことを《無神論者》と標榜し過ぎる。それはほんものの《無神論者》が無神論に到達するまで、どれだけ通俗的な意味における《神》と呼ばれる概念の弊害に苦しめられきたか、その地獄の苦しみを全く知らないからなのだ。

 ほんもののキリスト教徒、ほんものの仏教徒、ほんものの無神論者、ほんものの思想家、ほんものの芸術家…彼等はすべてそれぞれ自分たちの地獄を通過してはじめてそのような徹底した《無神論者》になってゆくのである。

 《人間》という概念は消滅する! ……とミッシェル・フーコーは『言葉と物』の中でその書物を閉じたが、それは原爆や環境破壊で消滅するのではなく、コンピュータやインターネット、あるいは官僚やメディア、あるいは宗教でもなんでもない偽宗教、あるいはこれから出現する《ことばを操る機械》すなわち人工知能、人間型ロボット、ゾンビ、ジンボ、いちいち数え上げれば限りがないそのような《もの》が人間を人間以下の存在、つまり《自動人形》にするのだ…と言っているのだが、これこそまさにあのニーチェが正確に予言したことではないか。

 しかし、ニーチェのその予言より、さらに深い洞察、それがあの謎の哲人、闇のひと、不思議なひと、頭のおかしいひと、ヘラクレイトスではないだろうか。

《決して没することのないものを前にして、人はどのようにして《それ》から身を覆蔵することができようか…》                断片 --16--


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『信のたわむれ』 目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連作品:
■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:

『ヘラクレイトス』         ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』        滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》      滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

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『マルコ福音書 上巻』      田川建三;新教出版社
『イエスという男』         田川建三;三一書房
『立ちつくす思想』         田川建三;勁草書房
『歴史的類比の思想』       田川建三;勁草書房
『批判的主体の形成』      田川建三;三一書房
『宗教とは何か』   田川建三;大和書房

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『言葉と物』          M・フーコー;新潮社 
『ソシュールの思想』       丸山圭三郎;岩波書店
『ソシュールを読む』       丸山圭三郎;岩波セミナーブックス
『沈黙するソシュール』     前田英樹; 
『偶然と必然』         J・モノー;みずず書房
『善悪の彼岸』           ニーチェ;岩波文庫
『道徳の系譜』           ニーチェ;岩波文庫

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