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zoom RSS 『信のたわむれ』 《覚の徹底化》

<<   作成日時 : 2005/10/21 05:16   >>

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三 覚の徹底化

 久松と滝沢の友情は滝沢の公案に久松がまことの沈黙を守ることによってみごとに成就された。そこには何の曇りも陰りもない、さわやかな青空がはてしなくつづく限りである。それに対して、八木と滝沢の友情は滝沢の公案に八木が別の公案を暗黙に投げかけることによって、ひとつのウロボロス、すなわち、デッドロック、タブルバインド、ようするに現代流のことばでいえばゲーデル問題を提起したのである。これは滝沢によってでも八木によってでもなく、ふたりによって提起されたのである。しかもふたりともそればゲーデル問題であることを知らなかったのである。

 ここで、また読者に注意しなければならないが、ここで展開されている二人の議論の困難性はゲーデル問題一般に共通するあの基盤を問題そのものの発端に内在させてはいるが、ゲーデル問題そのものではないということである。ゲーデル問題では《合理性の極限が非合理性として帰結された》という単純な言明だけである。その言明はそれ以上でもそれ以下でもない、ただその言明だけなのである。だから、読者はゲーデルから得られた結果のみを単純にこの問題に当て嵌め、何か帰結らしきものをでっちあげてしまう危険性については常に注意していただきたい。《合理性》と《非合理性》を並べておいてそれを単純に《即非》でもって解消してしまうような無知な一般化だけは絶対に慎んでほしい。

 ゲーデルが展開した証明は《整数論》というそれ自体きわめて抽象化された概念空間の中での帰結であるということである。ところが、ここで展開されている議論は、人間の存在様式の構造そのものの根源性の根拠をどこに求めるかというそれ自体根源的な問題を扱っているということである。したがって、ここでの議論にはその奥に《言語》、《存在》、《認識》、《信仰》、《虚無》、《歴史》、《経済》、《もの/こと》、《精神/肉体》、《生命》、《死》、《時間》、《空間》、《人間》、《自由》、《関係》など、人間存在に関する殆どすべての重要な概念についての議論が暗黙に内在されているということなのである。だから、読者がゲーデル的問題に詳しいか否かという問題はまったく考慮の対象に入らないばかりか、というより、読者はそのような単純な発想からできるだけ解放されてほしいのである。ここで、この二人の議論の構造がゲーデル的だといったのは、ウロボロスの構造がデッドロックすなわちダブルバインドの構造をしているからに過ぎない。ただそれだけのことである。

 さて、議論を戻し、滝沢が八木の答えを納得しないのは、久松の答えと八木の答えが滝沢には異なっているからである。言い換えれば、滝沢は八木にひとつの重要な考案を出し完璧な答えを要求しているのだ。これに対し、八木は滝沢からの公案を受け入れるが、それが本来の禅そのものの公案であることをすっかり忘れている。

 一方、滝沢は滝沢で自分が出した考案が禅の伝統での答えを要求しているのかあるいはキリスト教の伝統での答えを要求しているのかそのことすら自分で意識していない。つまり、滝沢も八木も自分たちの展開している議論が禅の立場で議論されるべきかキリスト教の立場で議論されるべきか、そのようなことを明確に規定することをせず、ただただ宗教者の情熱によってのみ展開されていることに誰も気づかない。いわばルールの明確にされていないゲームを展開しているような状況なのだ。

 更に、事態を複雑にするのは、八木は滝沢に暗黙に逆公案を投げかけていることなのだ。つまり、「私はあなたの公案に対してあらゆる情熱を傾けて完璧な回答になるよう努力するけれど、あなたがあなたの公案に完璧な答えをのみ求める、そのような《あなたの構造そのものに、絶対的に誤りがないかどうか》考えてください…」という全く新しい公案を同時に滝沢に投げかけているのである。これは、何も八木が苦し紛れに滝沢に出している公案ではないのだ。滝沢が八木に出した公案そのものにそれが含まれているのだ。つまり、滝沢からみれば、自分が八木に出したその公案のなかに自分自身への逆公案が含まれていたのだ。それは滝沢の公案に対して八木が誠実に答えようとすれば必然的に出てくるはずの公案なのだ。同様に八木からみれば、自分が滝沢に暗黙に出したその逆公案のなかに自分自身への《逆逆公案》が含まれているはずだ

 さて、この《逆逆公案》とは何か? 理解を助けるためにこのような自問を想定してみよう。つまり、八木はここに至ってやっと自分と対峙することになったと仮定してみよう。要するに、自分が滝沢に出した《逆公案》を自分の公案として受け取ってみるということである。

          ………………………………

 「私はキリスト教の活性化を第一義に願うあまりに、信仰の純粋性、根源性についてはひとまず括弧に入れておいて《覚》の立場を強調してきた。これはこれで間違いないとして、いったい《覚》の立場を強調するということは本質的にどういうことなのか? 百万のことばを並べて滝沢に肉薄することではないことはわかっているが、《ことば》で答えてゆくしかあり得ないではないか! …

          ………………………………

 そして自分自身との長い長い苦しみのなかで、あるとき、突然に、いや、まてよ! 私は分別知を超えることを第一義に強調してきたが、私自身、はたして分別知を超えることに命がけで努力してきたのだろうか? どのようにすれば分別知を超えることができるか根本的な発想を変えたことがあるのだろうか? …

 ここに至って八木は漸く自分の《覚》の立場が久松の《本覚》の立場と本質的に異なっているのか分かりかけてきた。

 実際八木がそこまで到達したか否かは措いておくとして、仮に、そういう境地に八木が到達したとしたらどのような帰結が可能であろうか?

 ひとつには、滝沢からの公案をひとつの禅の公案として受け取ることである。すると、あの久松と滝沢の対決(=友情)と同様に、瓢箪を蹴飛ばし悠然と後継者の地位についた禅者のように、これまで築き上げてきた一切のキリスト教の分別知を完全に捨て去り、ただただひとりの雲水になりきることである。もちろん、それは聖書の精神そのもの棄てることでもなく、それまで培われてきたすべてのものを内在させながら、かつ根底的に、本源的に、《不可分・不可同》のみの根源にたち返ることである。

 このことによって彼の価値が上がる訳でも下がる訳でもない。ただ、彼は滝沢の公案に久松がしたと同様な完璧なる沈黙をもって答えることができるのである。何もキリスト教を裏切る訳ではないし、キリスト教を超える訳でもない。ある意味でキリスト者以上のキリスト教の知識を持ったまま、おのれ自身は一人の雲水になりきるのだ。ここにおいて、ウロボロスの円環は裁ち切られる。しかし友情はそのままである。以前の友情が低い水準にあったわけではないが、友情の《関係》が質的に異なるものとなるのである。一介の雲水になりきることで《即非》という概念が《ことば》を超えて成就されたのである。《覚》の徹底化による《本覚》の出現である。この《本覚》は滝沢がいう《不可分・不可同・不可逆》と同一かどうか定かでないが、もうそのことはどうでもかまわない。なぜなら、《即非》という逆説的な意味で同一レベルのものなのだ。どちらの水準が高くてどちらの水準が低いという一切の議論は全く意味をなさないのである。

 つぎに、八木が滝沢の公案をキリスト教の伝統の意味で受け取る場合である。この場合、自分がかつて歩んだ基本から始めることになる。すなわち、《不可分・不可同・不可逆》の根源からはじめ、つねに《そこ》へと戻ってくる伝統的なキリスト者としての存在様式である。しかし、この場合でも、滝沢とのあの議論は無駄ではない。なぜなら、滝沢以上に根源の純粋性とその純粋性を《活性化》するため何が必要で何が必要でないか、あの苦しみから多くのものを学んだはずに違いないからだ。

 ここに至って、八木はいままで以上に純粋なキリスト者になるであろうし、いままで以上に仏教の本質をよく知ることができるようになるであろう。また、それが滝沢の八木にたいする願いであっただろう。つまり、滝沢のあの執拗なまでの徹底性は八木が雲水になるにせよ、キリスト者に留まるにせよ、いずれにしても八木にそのような人間になってほしいという、ただその一事にのみあったからだ。滝沢の役目は八木が雲水になるかキリスト者になるかそのどちらをとるにしても八木が自分の《根源》をどこに置くか、その選択の立場を徹底化することを迫っていたのだ。なぜならば、その徹底化は宗教を非活性化させる徹底化ではなく、宗教を純化させ活性化させる徹底化であることを滝沢は信じて疑わなかったからであり、八木も、《逆逆公案》を通してはじめて宗教の《純化と活性化》のウロボロスから解放されるからである。ここで、読者に注意していただきたいことがある。すなわち、ウロボロスから解放されることが大切なのではなく、徹底的にウロボロスの中で格闘することが大切だということを

 さて、最後に、以上二つの帰結以外にどのような《覚》の徹底化の可能性が八木に考えられるか。それは、私が伏線として繰り返し暗示してきたあの可能性である。そう、あらゆる宗教、哲学、あらゆるロゴスの現前を幻想としてことごとく退けた、あの哲学の《巨人》、あの無の《信仰者》、あの《十字架につけられた》ものの立場に八木が立てるか…ということである。この立場に立つということは、滝沢の公案を禅の公案として受け取り、かつ、それを久松とは完全に異なる方法で完璧に答え、かつ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教からの公案としても完璧に答えを提示することである。私は八木はこの立場を採らないと仮定し、ここで展開されている議論をさらに別の方向へ展開させてみようと思う。

 これまで、仏教、キリスト教のみに焦点を絞ってその議論を進めてきたが、あらためて無神論者たち、すなわち、マルクス、フロイト。ソシュール、そしてニーチェたちの思想をその根源にもつ人々をこの舞台に登場させなければならない。なぜならば、久松、滝沢、八木を論じておいて田川建三を無視するこは絶対に許されないことなのだから…。

 ここに至って、フーコー風に言えば、古典主義時代から近代へと議論の場面が移るのである。

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『信のたわむれ』 目次一覧
第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき
 
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関連文献:
■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:

『ヘラクレイトス』 ハイデッガー全集 55巻
『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教》     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』    八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
仏教関係の皆さんへ:

私はクリスト教徒から完全な脱キリスト教に成功した人間ですが、キリスト教そのものを否定している訳ではありません。ただ、ほんもののキリスト教徒はニーチェ、ソシュール、ハイデッガー、キルケゴール、ヘラクレイトスといった一連の人間の思想を深く理解できているはずであると旨を述べているだけです。
モツニ
2005/10/23 12:15
同様に、仏教関係の皆さんで仏教、あるいは仏教というより幼稚園仏教から卒業できた…と豪語できるようなひとからのコメントをお待ちしております。はっきり言って、キリスト教関係者もすべてマスタベータですが、仏教関係者だってそれ以上にどうしよもないマスタベータであることは皆んな知っています。その証拠がオウム真理教そのものではありませんか! 仏教版キルケゴール、ニーチェ、ソシュール、ハイデッガーの出現をお待ちしております。
最後に、わたしはその一例として故山崎弁栄正人の『人生の帰趣』はそれなりに評価しております。もっとも、キリスト教と一緒くたになっているような部分もありますが、また、哲学で言えば、カントのレベルを超えてはいませんが、それでも優れたものを感じますし、何より、人格的に優れたひとであることは、田川建三氏、故丸山圭三郎氏などと並んで非常に高く評価しております。
モツニ
2005/10/23 12:23

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