哲学日記

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zoom RSS 『信のたわむれ』 《情熱のウロボロス》

<<   作成日時 : 2005/10/21 03:00   >>

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二 情熱のウロボロス

 まことの信仰者、深い仏教理解者であり《不可分・不可同・不可逆》の提唱者滝沢克巳は、ある人物の紹介で、まことの信仰者、深い仏教理解者であり《不可分・不可同》〜《不可分。不可同・不可逆》の提唱者である八木誠一と出会うのである。二人はキリスト教という共通基盤を持ち、かつ、仏教、特に禅の深い理解者たちなのである。久松真一と滝沢克巳の友情が深い沈黙をもって確立したのに対して、八木誠一と滝沢克巳の友情は激烈な情熱を媒介として成立しているのである。その情熱を支えている源泉は八木の滝沢を思うこころであり、滝沢の八木を思うこころである。このようにして二人の友情ははじまった。

 八木は言う「《不可分・不可同・不可逆》の根源は《不可分・不可同》の《覚》の体得によって深まる。したがって、《不可分・不可同》が《不可分・不可同・不可逆》へ目指す限りに於いて《不可分・不可同》を強調する立場を認めてくれ…」と。これに対して滝沢は八木のほとんどすべての主張を受け入れるのだが、八木の《不可分・不可同》と滝沢の《不可分・不可同・不可逆》との《即非》性だけは認めることができないとして断固それを拒否する。

 こうして、最も深い友情がはじまるのである。八木が最もキリスト教的な伝統、すなわち神学から、伝承史、様式史、編纂史など、つまり系譜学について学び、それらすべてを踏まえて信仰に関する自分の神学を確立するに至るのに対して、滝沢は西田幾太郎、久松真一などもっとも仏教的な伝統に基く思想から出発し、カール・バルトの神学に出会い、そこで彼の最終的な到達点である《不可分・不可逆・不可同》の根源に自分自身を定立する。この意味で、ふたりともキリスト教の伝統に確立された信仰であるということがいえる。

 さて、仏教的な深い洞察をもっていながら、ただただ《不可分・不可同・不可逆》の根源のみが必要にして十分であるという立場に立つ滝沢とは対照的に、自身あまり深い仏教的洞察をそれまで抱いてこなかった八木はキリスト教の深い研究によってかえって仏教的な洞察の必要性を感じるようになっていった。そして、ひとつの決定的な体験をするのである。

 その体験が仏教者がいういわゆる本色の覚、すなわち本覚であるか否かは一応措いておくとして、言語を介在しない認識、分別知を超えた《知》、すなわち《覚》という現象が現に自分に起こり得たということを深くこころに留めるのである。その瞬間以来、八木の語る全ての信仰、神学、系譜学、その他すべてのことがらはあの《覚》の体験を一瞬たりとも離れることはなかった。

 なぜ八木にとってあの《覚》の体験が本質的に重要であるかというのは、キリスト教の世界だけでなくロゴスの現前が根底から揺らいでいる西洋文明、西洋哲学そのものの危機を救う鍵になるかもしれないと思うからなのである。情熱家八木誠一にとって、あの《覚》の体験はキリスト教社会が現に陥っている絶望的なまでの閉塞状態を打開するひとつのヒントになることを期待しているのである。彼の願いは別に新しい宗教を創るのでも、新しい教祖になるのでも、いわんや、学者としての自分の地位を高めるためではなく、ただただ、今現に置かれているキリスト教そのものの窮地をなんとかして再び活性化させたいというその一点だけである。そこで、友人でありかつ先輩である滝沢に対し、こう繰り返し問う。

 「先生は、私の《覚》の立場が先生のいう《不可分・不可同・不可逆》のそれとは完全には一致していないことに危惧の念を抱いていらっしゃいます。それは認めます。しかし、先生は私の《覚》の立場、すなわち《不可分・不可同》に触発され《不可分・不可同・不可逆》に到達する可能性をどうしても認めてくださらないのですか? どうしても《不可分・不可同・不可逆》から《不可分・不可同・不可逆》へでなければだめなんですか? …
…」

 久松と滝沢との友情(=対決)では、《不可分・不可同》と《不可分・不可同・不可逆》の関係はあの沈黙を通して、唯一まことの沈黙を通して《即非》の関係として、つまり絶対矛盾の自己同一という逆説として、互いに異なる立場が互いに異なるものとして(=非)そのまま(=即)同一であるということが無言のうちに成立するのに対し、八木と滝沢の友情(=議論)では、互いにお互いの立場の危険性に対して危惧の念を抱いているのである。

 滝沢の八木に対する懸念は、八木が《不可分・不可同・不可逆》からはじまりながら《不可分・不可同・不可逆》ではない立場に転落していまう可能性があるかもしれない……ということであり、一方、八木の滝沢に対する懸念は滝沢が常に《不可分・不可同・不可逆》によってはじまり《不可分・不可同・不可逆》で終るその根本原理のみを強調するだけで、《いかにして》その根本原理にひとが導かれるかということはあまり注意を払わないそのことそのものに、つまり滝沢の存在論的立場、哲学的立場は信仰そのものの硬直化に繋がるのではないか、そのような硬直化は打破されなければならないのではないか…と
いう懸念である。

 この構図は、譬はあまりよくないが、二匹のへびを円環状に配置させ、互いの尾尻が互いの頭にくるようにすることによって得られる構造、すなわちウロボロス、情熱のウロボロスとしてイメージすると分かりやすい。どちらかの蛇が優勢であれば、一方が他方を呑込んでそれで現象は集結する。つまり、どちらかが折れて相手の立場に第一義性を認める場合である。ところが、二匹が同じ、つまり互いに相手を喰いちぎるスピードと量が等しい場合、言い換えれば、両方の立場がその強さ、深さ、広さ、一言でいえばその根源性において等しい場合、いくつかの帰結の可能性が考えられる。

 ひとつは、二匹の蛇が一挙に消滅してしまうという予想。つまり、相手のへびに喰われた体はすべてエネルギーになって消滅してしまうという前提を立てた場合の考えられる可能性であるが、それぞれの蛇の脳が相手の蛇にどれだけ喰われたとき相手の蛇を喰うことを停止するかその臨界条件を設定しなければならない。極限すれば、わすかでも脳の一部が残っていれば相手の蛇を喰うことができるという前提を設ければ、数学の短調減少の極限値ゼロがそれぞれの蛇に出現される。つまり、ウロボロスそのものが滑らかに消滅することが観察されるのである。もっとも、以上述べたことはあくまでひとつの極限の可能性であって、現実には二匹の蛇はお互いに部分的な脳を残したまま死ぬのであるが。

 さて、議論をもどし、等根源性においてその深さ、強さ、広さの等しい両者の議論は果てしなく続くのである。そのことによって両者の立場が根源性を深めるか否か一応ここでは措いておくことにして、いずれにしても、滝沢の立場が八木のそれより深いとか、あるいはその逆だとか、滝沢のは存在論で八木のは認識論だから議論がかみ合わないのだだとか、滝沢も八木も頑固だから駄目だとか、その他すべての虚しい《ことば》は、あのヨブの友人たちの《ことば》よろしく、一切のことばを失うのである。

 このように議論が遠々と展開されるのは、議論が最もよくかみ合っている証拠である。では、このような議論のはてしない展開に果たして意味があるのかないのか? あるいは、このような議論の展開によって何か新しい地平が見えてくるのか否か? 見えてこないとするならば、なぜそれにもかかわらず果てしなく議論が続くのだろうか、その情熱の源泉は何なんだろう? また仮に何等かの新しい地平が見えてくるとするならば、それは何なんだろう? また、どのようにして、あるいはどのように見えるのだろう?

 ここでもまた、あの謎のひと、あの闇のひと、あの天才にしてまことの哲学者、《上ることは下ることに等しい…》という《諸対立物調整の法則》を主張している、あのヘラクレイトスそのひとにいつか登場してもらうことになろう。


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目次一覧
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第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら

あとがき

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関連文献:
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■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:

『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教』     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』   八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

『ヘラクレイトス』  ハイデッガー全集 55巻

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「座乱読後乱駄夢人名事典・歴史上のお友達?」を覗いていたら、どの記事もその画像な ...続きを見る
無精庵徒然草
2006/10/08 08:40

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