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zoom RSS 『信のたわむれ』 《語ること》と《沈黙すること》

<<   作成日時 : 2005/10/20 09:22   >>

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第一章 対話すること

一  語ること と 沈黙すること

 まことの仏教者、本覚の体得者にしてキリスト教の深い理解者である無神論者久松真一と、西田哲学の体得者にして仏教の深い理解者であり、《不可分・不可同・不可逆》の根源からすべてを論じるまことの信仰者滝沢克巳とは旧知の友である。この滝沢克巳はとき至って、久松真一にこう訊ねる。「あなたは《不可分・不可同》の根源からすべてを論じるが、真なる根源は《不可分・不可同・不可逆》ではないのか……」と。

 これに対して、久松真一は終始一貫して沈黙している。彼は親友滝沢の問いに対し自分の《不可分・不可同》の根源をいささかも撤回することなく、また滝沢克巳の《不可分・不可同・不可逆》の根源を否定することなく、ただ厳格に、しかも穏やかに、かつ決然と沈黙するだけである。久松は、本覚の体得者であり、キリスト教の深い理解者であるから、滝沢のこの問いに対し、たとえどのように厳密に言表し得たとしても《ことば》で答えることは一切無意味であることを知り抜いているのである。久松にとって、自分の根源である《不可分・不可同》と滝沢の根源である《不可分・不可同・不可逆》が完全に異なるまま完全に一致していること、すなわち《即非》の関係にあることを《知って》いるのである。

 久松は滝沢からの問い、つまり滝沢の公案に《沈黙》をもって厳密に答えているのである。これのみが唯一絶対の正しい答えなのである。《神》がヨブに出した公案はヨブの友人が提案したすべての《ことば》による答えを退け、《神》自身がヨブに答えることによってのみ、すなわち《神》が公案を与え《神》が公案に答えることによってのみヨブを納得させる。つまり、ここでも沈黙することのみが唯一の答えになっているのである。ヨブ記の現代版の解釈としては、《神自らが答える》ということはすなわち《沈黙》することを意味している。したがって、《沈黙》のみがヨブを満足させたように、滝沢の公案は《沈黙》のみが滝沢を満足させるものとなるのである。

 ところで、ここで注意しなければならないことがひとつある。《沈黙》には一切の悟りの意味での沈黙と、純粋な無知あるいは無能を意味する沈黙があることである。そして、悟りの意味での沈黙と無能の意味での沈黙のたわむれが、これまた新しい公案を生み出す源泉になるのであるが、ここではそれについて深く立ち入ることをしない。ただ言えることは、人類は自分を含め悟りの沈黙を無知のそれと、また無知の沈黙を悟りのそれと取り違えてきたことだけは確かである。どれだけ多くの《真理》と呼ばれてきたものが《虚偽》として退けられてきたか、あらためて強調する必要もないであろう。

さて、久松真一はまことの覚者、すなわち本覚の体得者である。したがって、友人滝沢克巳からの公案は悟りの《沈黙》をもって、すなわち無知の《ことば》ではなしに沈黙という《おこない》そのもので必要にしてかつ十分な答えを滝沢に差し出しているのである。そして、仏教あるいは禅に対する深い理解者でありかつまことの信仰者である滝沢克巳は、久松の《沈黙》が深い悟りから来るところの《沈黙》であることを悟り、彼の沈黙を自分の問いに対する答えとして受け入れるのである。こうして、二人の間の深い沈黙にもかかわらず、いや、そのような深い沈黙の故に友情はますます深まるのである。

 仏教者はひとりの単純な、あるいは純粋な仏教者としてのみキリスト教者あるいはその他の宗教の信仰者と深く純粋に関わってゆくことができるのである。同様に、キリスト教者も単純なあるいは純粋なキリスト教者としてのみ仏教者だけでなく他の宗教の信仰者と純粋に深く関わってゆくことができるのである。

 ただ、ここでも注意しなければならないのは、純粋な信仰者あるいは素朴な信仰者が何を意味するか深く洞察しなければならないということである。例えば、キリスト教にその一例を求めれば、聖書のみの知識であるが故に純粋になれる場合があれば、聖書のみの知識であるが故に無知に陥ってしまう両方の場合がある。

 つまり、《聖書のみでいい》という言明は純粋性へも無知性へも等しく可能性を示す逆説両義性をもったものなのである。あらゆる神学、聖書学などの知識を備えながら純粋な無知を示している人間がいるかとおもえば、聖書の知識すら持たないにも拘わらず深い信仰を示している人間がいるのである。

 ここで問題となるのは、《深い知識》をもてとか、《深い知識》は必要ないとか特定の立場に立つことではなく、単純な信仰者に徹するということはそれほど《単純》ではないということである。キリスト教に一例をあげれば、ニーチェの最もよき理解者が最も純粋なキリスト者となり得ると同時に最も精緻な最新版の組織神学の理解者が最も無知なキリスト者となり得るのである。

 ここでも、注意して頂きたいのは、ニーチェの理解が(ニーチェに対するそれが正しい理解であったと仮定して)必然的に純粋な信仰へと導くものでもなく、その反対に必然的にニヒリストに導くものでもないということである。同様に、最新の組織神学(それが正しい神学であると仮定して)の正しい理解が純粋な信仰へと導く場合もあれば純粋な無知へ転落させることもあり得るということである。

 問題は、ニーチェの理解云々、聖書の理解云々ではなく、信仰の単純性、純粋性というものはそれほど単純ではないということなのだ。場合によっては、宇宙の知識すべてを集めてはじめて単純性に近づくこともあれば、ただ単に念仏を唱え、あるいは題目を唱えて純粋性に近づくこともあり得るということである。

 しかし、ここでも、先ほどの悟りの沈黙と無知の沈黙の違いを思い出してほしい。悟りも、沈黙も、信仰も、《ことば》の水準をはるかに超えたひとつの《狂気》、《幻想》、《虚構》でないと誰が断言できよう。

 これについては、あの闇いひと、あの不思議な人物、ヘラクレイトスのみが語る権利をもっているのではないだろうか?


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『信のたわむれ』 目次一覧
第一章 対話すること
一 語ること と 沈黙すること
二 情熱のウロボロス
三 《覚》の徹底化  
四 信じること と 喰うこと (前半)  
四 信じること と 喰うこと (後半) 
五 幻想としての宗教  (前半)
五 幻想としての宗教  (後半)
第二章 分裂病者との対話
一 分裂病者とキリスト教者
二 分裂病者と覚者 (前半)
二 分裂病者と覚者 (後半)
三 分裂病者と天才)
第三章 ことば・こころ・もの
一 ことばの世界(キリスト教世界)
二 こころの世界(仏教世界)
三 ものの世界(無神論世界):前半
三 ものの世界(無神論世界):後半
第四章 ロゴス・反ロゴス・非ロゴス
一 ロゴス空間:前半
一 ロゴス空間:後半
二 反 ロゴス空間:前半
二 反 ロゴス空間:後半
三 非ロゴス空間:前半
三 非ロゴス空間:後半
第五章 衰弱する言語
一 丸山圭三郎(ソシュールの思想)
二 デカルト批判の批判
三 現代の科学者たち
第六章 さよなら
あとがき
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関連文献:

■ 『拝啓 小学生の皆さんへ』
■ 『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』
■ 『インターネットで見た光景』
■ 『Ωの輝き』
■ 『知のたわむれ』
■ 『覚のたわむれ』
■ 『現代のたわむれ』
■ 『異常なる感性』

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参考文献:

『仏教とキリスト教』       滝沢克巳;法蔵館
『続 仏教とキリスト教』     滝沢克巳;法蔵館
『仏教とキリスト教の接点』   八木誠一;法蔵館
『久松真一著作集』        久松真一;法蔵館
『滝沢克巳著作集』        滝沢克巳;法蔵館

『ヘラクレイトス』  ハイデッガー全集 55巻

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モツニ、牧師さんとの会話(その4)
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