哲学日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 「「価値なき神」の哲学日記 bQ39」について

<<   作成日時 : 2005/09/26 06:20   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

「価値なき神」の哲学日記 bQ39」について
2005年06月22日
 私も、愛ちゃんや若貴のように子供の頃の環境が恵まれていただろうか?

何事も、人より抜きんでた人間になるためには、あんなふうに幼児期の頃からすでに、その道のことを一生懸命やらなければならないのですね。

ひるがえって、私はどうか?幼児期の頃からすでに、この哲学をなすに都合のよいようなことをやっていただろうか?

/////

近所に遊び仲間の子供がたくさんいた。私の兄弟姉妹も7人。
 毎日みんなと遊んでばかりいた。学校から帰ってくるとカバンを放り投げて遊びに行った。四国は鳴門の田舎町。町中あちこちほっつき歩いて、今思い出しても、私は、そこら中のウチ全部、ウチの中まで上がりこんで行ったのを覚えている。現今のように、人を見たら疑え、というような時代ではなかった。子供は、どこのウチでも上がりこんで行ってよかったんだ。面白い時代でしたね。

 そう、私は子供の時に、豊かに、いろんな人、いろんなウチ、社会全般を経験したんだ。それこそ、盛りだくさん、いっぱいね。

 自然も豊かだったよ。川、海もそばにあったし、田んぼ、畑、小高い山、
 自分のウチにも裏庭、畑があって、いろんな虫とか、山吹、桜、びわ、木イチゴ、セミ、ヘビ、
 そう、魚とり、

 豊かな自然の中で遊んでばかりいた。

/////

中学1年に入ってまもなく、同じ田舎町の中でも、はずれの方から、町の中心部へ引っ越したのもよかったな。そこで勉強のよく出来るアカ抜けした町の子に会った。

 高校に入ってからは、まもなく大学受験勉強生活に入り、現実の社会とか自然との触れ合いは希薄になったが、その代わり、それまで全然しなかった勉強の遅れを取り戻すことを一生懸命やった。

 大学以降は、道に迷い、試行錯誤の連続で50歳を迎えたことは、すでに言いました。

--------以上引用(↑)-------

『拝啓 小学生の皆さんへ』および『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』という作品を書かせていただきましたが、その背景にある子供の風景、こどもが育つ環境、こどもの世界…、そういったものの雰囲気のひとつを上に引用した箇所は示しています。

 つい最近、2005年9月、広島の尾道の学校の先生がアフガニスタンで殺された事件がありましたが、あの二人の先生はこのコメントの引用箇所で示されていたあのような原風景、原初的な風景の味をどうしてももう一度体験したかったかと思うのです。

 残念ながら、現在の日本には、かつてあった豊かな世界、”貧しさのなかの限りない豊饒”というこのとてつもなくきらきら輝いていたそのような風景はどこを捜してもみつかりません!

 かつて、日本全国、宮沢賢治が描写したあのような風景、あのような世界が慥かに存在していたのは戦後生まれのわたしにも覚えています。

 さて、本題にはいりましょう。

 選挙結果があのような結果になりました。その意味は、不況という概念はしばらくは茶の間から消え去るでしょう。実際には”不況”そのものがなくなるわけではありませんが、不況について論じることそのものが無意味になるような、そんな時代に突入してゆくからです。

 そして、いよいよ、お待たせしました。”教育問題”これが、この大問題がついに議論されるようになるのです。戦後60年、我が国は国の根本問題である教育について知っているか否かを問わず、その本質的なことを問うことを避けてきました。つまり、宗教的なことがらについて、倫理的なことがらについて、精神的なことがらについて、これら一切が厳然としたタブーになって今日に至ったという背景があります。

 およそ、教育を問うとき、《こころ》の教育を完全に無視している日本の教育を鑑みるにつけ、日本以外のどのような国が我が国のような無謀、無策、無能であるのか知りたいものである。

 さて、欧米ではすでに減価償却が終了している”キリスト教”になお教育の基盤を据えようとしていますが、残念ながらその試みはことごとく失敗に終るでしょう。なぜなら、キリスト教の本質が”偽善”であることはイラク戦争の例だけでなく、これまで欧米が地球レベルで展開してきた諸の紛争、紛争解決のインチキを例にとれば歴然とするのではないでしょうか!

 一方、イスラム諸国は二十一世紀のこの現在に至っても中世そのものの発想を頑なに守って、あいも変わらず、対キリスト教世界に挑戦している姿、すなわち、アンチ十字軍的ものの見方考え方、それを厳密に教育に反映させています。
この点では、キリスト教世界よりイスラム教世界の方が成功しているような気がします。(いい悪いは別にして…)

 さて、中華人民共和国の教育の問題はわが国の教育の問題とまったく同じ問題を抱えることになるでしょう。あるいはむしろ日本よりずうっと悲惨な状況にすでになっているのでしょう。

 どういうことかと申しますと。”神”という概念を抜きに教育は不可能であるというこのことなのです。ただ、問題はその”神”についてなのですが、欧米のようにすでに陳腐化してしまっているキリスト教の神を”神”として担ぎ出してきてもほんとうのインパクトは失ってしまっている…というこのことです。ですから、ある意味でイスラム社会はこと”教育”という点に関して言えば最も成功している文化圏であると言えます。

 それで、日本の場合、戦前までは”仏教的伝統”、”儒教的伝統”、”神道的伝統”、”国家神道的伝統”、”自然宗教的伝統”、”アイヌ的伝統”、”沖縄原住民的伝統”…といった非常に豊富なローカルな精神風土が残っていたのですが、戦後、アメリカの強制的な押し付けにより、わけのわからない”民主主義”的な一般教育にすべてがあいまい化させられてしまいました。

 わたしは何もここで、戦前の教育がすべて正しかった…ということを主張するつもりではありませんが、少なくとも、戦前の教育で優れていた部分が実際に多くあったことは認めるべきである…という主張なのです。ただ、現在の文部省にしても日教組にしても、問題の本質がどこにあるか全くわかっていないから、戦後60年、このような焼け野原になっているのです。

 いいですか、今の教育の現場の風景は60年前のあのすべて一面が焼け野原であったあの風景そのものなのですよ! なぜ、そこまで破戒してしまったか…と問えば、日本にはすぐれた”神”が数多くいたにもかかわらず、”神”という概念をことごとく”民主主義”というアメリカ的偽善そのものに完全にすり替えられてしまったからなのです。このことは教育にとってとてつもなく怖ろしいことなのですが、このことの本質を洞察しているひとはほとんどいません!

 なぜなら、この問題がわかるには、キリスト教の本質、仏教の本質、イスラム教の本質、無神論の本質のすべてを洞察できて、かつ、”神”という概念をどのようにこどもたちに植え付けるか…というそういう問題を意味しているからです。

(つづく)

---------------------

『拝啓 頭のおかしいおじさんへ』 の目次

《いじめの原因》     
《大きな問題》 
《童話のこころ》 前半  
《童話のこころ》 後半  
《目立たない勇気》 前半  
《目立たない勇気》 後半  
《ほんとうの教育》 その1 
《ほんとうの教育》 その2 
《ほんとうの教育》 その3 
《誰が先生?》 前半  
《誰が先生?》 後半  
《やり直し》 前半  
《やり直し》 後半  
《いじめる子供たち》   
《対決》 前半     
《対決》 後半
《子供の仕事》
《あとがき》       作成中

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「「価値なき神」の哲学日記 bQ39」について 哲学日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる